高承山教証寺|徳川忠長に嫁いだ教証院殿が創建
教証寺の概要
真宗大谷派寺院の教証寺は、高承山と号します。教証寺は、徳川忠長に嫁いだ教証院殿(長姫)が、その子息久遠寿院殿(後の東叡山寛永寺二世)に従って、上野下の当地に教証院と号して起立、教証院殿の二十五回忌の寛文7年(1667)教証寺と改めたといいます。
山号 | 高承山 |
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院号 | - |
寺号 | 教証寺 |
住所 | 台東区池之端1-2-5 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
教証寺の縁起
教証寺は、徳川忠長に嫁いだ教証院殿(長姫)が、その子息久遠寿院殿(後の東叡山寛永寺二世)に従って、上野下の当地に教証院と号して起立、教証院殿の二十五回忌の寛文7年(1667)教証寺と改めたといいます。
「下谷區史」による教証寺の縁起
教證寺(茅町一丁目四番地)
大谷派本願寺末、高承山と號す。本尊阿彌陀如来。本願寺十二世教如の長女にして花山院忠長に嫁し、東叡山第二世公海准三后を生んだ教證院(幼名長姫、寛永二十年歿)が寛永九年十二月創建するところである。寺内に柳瀬穏口の墓がある。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による教証寺の縁起
東本願寺末 下谷茅町
高承山教証寺 境内拝領地157坪。
当寺由緒者慶長元年勢州桑名ニ於て本統寺建立。教証院殿幼名長姫御方9歳之時桑名ニ下向。女儀ニ候得共寺務代致候。暫ク在住ニ而慶長4年12才ニ而し帰京。同8年16才之時、花山院左少将忠長卿ヘ御入嫁。同12年12月12日久遠寿院殿御誕生。同14年忠長卿7月4日故在而、後陽成院帝蒙勅勘、11月8日松前ヘ流罪被仰付候。依而長姫御方、久遠寿院殿3才之時御伴ひ、里方本願寺ニ後帰住。其後元和6年南光坊天海大僧正本願寺ニ入来有之。久遠寿殿14才之時御乞被成、同9年駿府惣持院ニ而御得度有之。寛永元年東叡山を開山、常に被為住候。長姫君御実子東叡山ニ被為在候故、寛永9年12御弟宣如御門跡御同道御下向。然ル処御女儀之御事故上野に難被為住思召、不忍池の辺御隠室を造らせ御居住有之候。然るに長姫君12年御在府被遊候処、慶長之比桑名に御在住、本統寺を被為続候。寿量院宣恵連枝、7月之始御病気之儀申来候故、無拠桑名ヘ被為登候処に、初冬の頃より御発病にて寛永2年12月17日56才にて卒去。本統寺御墓御座候。江戸下谷池之端御隠室の地へ為御菩提、慈眼大師之養甥敬念寺了円と申者ヘ被仰付、中陰法事専行仕候。其後寛文七年12月17日教証院殿25回忌被為当候ニ付、山科より久遠寿院殿本願寺へ御入来。啄如御門跡ヘ被遊御頼候て、敬念寺了円来御法会相勤候ニ付、教証院殿之号を寺号に相改、二代目寺務被仰付候。本願寺の御一家余間席ヘ被召加候。元禄八年久遠寿殿三宮殿八十九才ニ而山科毘沙門堂にて十月十六日御遷化。同十年准三宮殿御三回忌に付、大明院様より本山一如御門跡ヘ御頼被仰入、院家御取立、教証寺三代目了覚蒙仰候。(御府内寺社備考より)
教証寺所蔵の文化財
- 柳瀬美仲墓(東京都旧跡)
柳瀬美仲墓
柳瀬美仲(1685-1740)は徳川時代中期の歌人。かれは宝永2年遠江国浜松に生まれ、名を方熟、字は美仲、号を隠江翁と称していた。京都に居住して詠歌を武者小路実陰の門に学び、のち、江戸に出て和歌を教授した。
はつせ路や 初音聞かまく尋ねても まだこもりくの山ほととぎす
の一首によって、世人は美仲を「こもりくの美仲先生」と呼んでいた。著書には「秋夜随筆」その他がある。
元文5年5月17日、年56で没した。墓石には「隠口先生美仲甫之墓」とあり、巷に「こもりく先生」の名がもてはやされたことが知られる。(東京都教育委員会)
教証寺の周辺図