法林山正慶寺|台東区池之端にある臨済宗妙心寺派寺院
正慶寺の概要
臨済宗妙心寺派寺院の正慶寺は、法林山と号します。正慶寺は、湛水和尚の母千草澤女(法林院殿椿窓永春尼首座禅姉)が開基、湛水和尚(池田輝政之家士平岩氏之子)が開山となり、大梁山法林寺と称して寛永7年(1630)に創建、堂宇大破していた同寺を柳沢甲斐守吉保の家臣平岡衛門(正慶寺殿休翁宇閑居士)が中興開基し、元禄14年(1701)法林山正慶寺と改号したといいます。
山号 | 法林山 |
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院号 | - |
寺号 | 正慶寺 |
住所 | 台東区池之端2-4-22 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正慶寺の縁起
正慶寺は、湛水和尚の母千草澤女(法林院殿椿窓永春尼首座禅姉)が開基、湛水和尚(池田輝政之家士平岩氏之子)が開山となり、大梁山法林寺と称して寛永7年(1630)に創建、堂宇大破していた同寺を柳沢甲斐守吉保の家臣平岡衛門(正慶寺殿休翁宇閑居士)が中興開基し、元禄14年(1701)法林山正慶寺と改号したといいます。
「下谷區史」による正慶寺の縁起
正慶寺(池之端七軒町四五番地)
京都妙心寺末、法林山と號す。本尊釋迦如来。寛永七年(文政町方書上には寛永五年とあるが今は文政寺社書上に從ふ)開山湛水の葉は千草澤女(寛文十一年五月十四日寂、謚して法林院殿椿窓永春尼首座禅姉といふ)を開基とする。はじめは大梁山法林寺と號した。後、堂宇大破するに及び、元禄十四年柳澤甲斐守吉保の家臣平岡衛門(歿後謚して正慶寺殿休翁宇閑居士といふ)幕府の許可を得て之を再建し、今の山、寺號に改めた。寺内に北村季吟の墓がある。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による正慶寺の縁起
京都妙心寺末 下谷池之端七軒町
法林山正慶寺、境内古跡除地表口30間奥ヘ35間1050坪内門前町屋
寛永7年建立、大梁山法林寺ト申所、元禄14年法林山正慶寺ト改号、寺社御奉行久世讃岐守様ヘ願上願之通被 仰付。且又貞享初年御改之節御除地御免被 仰付候。
開山湛水和尚。池田輝政之家士平岩氏之子也。母は勢州千草氏之娘也。紫衣ヲ賜ヒ延宝9年9月19日春秋六十余ニ而遷化。
二世龍山和尚、開山之直剃度也。武州忍府小野氏之次子也。元禄12年11月29日遷化。
元開基千草姓於澤多年 御本丸御表使役ニテ度々立身老年ニ至リ剃髪、開山之慈母也。寛文11年5月14日死去。法号法林院椿窓永春尼大姉。
中興開基松平甲斐守家臣平岡宇右衛門。法号正慶寺殿休翁宇閑居士、元禄6年5月4日死去。
客殿。本尊釈迦如来、木坐像長3尺5寸雲慶之作。右達磨。左大帝大現、各夢想窓国師作。伽羅木正観音、立像丈2寸外厨子丈3尺余御紋付。但し中厨子ノ裏ニ開山自筆。(御府内寺社備考より)
正慶寺所蔵の文化財
- 北村季吟墓(東京都指定文化財)
北村季吟墓
都史跡 北村季吟墓
季吟は通称を久助といい、拾穂軒と号していた。はじめ医を業とし、のち、京都新玉津島社の祝となり安原貞室、松永貞徳の門に入り、和歌・俳諧を学び、幕府の歌学所に補せられ、再昌院法印の称を受けた。
著書に「徒然草文段抄」「枕草子春曙抄」「源氏物語湖月抄」その他がある。
宝永2年(1705)6月15日、年八十二で歿した。
円頂角石の正面に「再昌院法印季吟先生」とあり右側面には丸に井桁の家紋と「花も見す郭公をも待ち出づこの世後の世、おもふ事なき」、裏面に「宝永2乙酉6月15日、82歳卒」と刻する。(台東区教育委員会掲示より)
正慶寺の周辺図