盛林山大正寺|台東区池之端にある日蓮宗寺院
大正寺の概要
日蓮宗寺院の大正寺は、盛林山と号します。大正寺は、円通院日亮が慶長9年(1604)に草庵として創建、二世本立院日盛聖人代の寛永8年(1631)に盛林山大正寺と号したといいます。
山号 | 盛林山 |
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院号 | - |
寺号 | 大正寺 |
住所 | 台東区池之端2-1-21 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大正寺の縁起
大正寺は、円通院日亮が慶長9年(1604)に草庵として創建、二世本立院日盛聖人代の寛永8年(1631)に盛林山大正寺と号したといいます。
「下谷區史」による大正寺の縁起
大正寺(池之端七軒町一四番地)
京都妙覺寺末、本尊十界曼荼羅。僧日亮慶長の頃此處に草庵を營み大正庵と號し、元和二年十月之を寺とした。寺内に川路聖謨の墓がある。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による大正寺の縁起
京都妙満寺末 下谷池之端
盛林山大正寺、境内古跡地319坪余
当寺最初ハ、御中間畔柳助九郎地面ニ御座候処、慶長9年、開庵主円通院日亮(出所不知)隠居所に買求草庵を結。大正庵と号。一寺取立之志願有之候得共、未時至候や。終に寛永元年8月17日、69歳にて遷化。2代目本立院日盛聖人、右日亮之志願を受継、丹誠を抽同8年、高祖大士350回忌報恩に、一寺建立成就。盛林山大正寺と号。日亮師を以開基トいたし候。高祖尊像此時に彫刻。当代京都妙満寺末頭寺と相定候。本山22世上聖院日亮師代也。明暦2年10月17日、行年66歳ニして遷化。依之以来開基日亮、開山日盛と称来候。
三代目真如院日性代、寛文10年寺地御改之節、御糾之上古跡除地に被成下置候。其後天和元年、高祖大士400回忌為報恩、両尊四菩薩文殊普賢四天王并大黒天、新に彫刻。貞享5年8月13日、遷化致候。
客殿。本尊、法華宗法之通。半鐘、丈竜頭迄2尺4寸余亘1尺3寸5分。
鎮守堂。鬼子母神立像丈5寸4分本山三祖日像菩薩作、本末之証ニ贈之由申候。大黒天立像丈1尺3寸8分。
以上丙戌書上。(御府内寺社備考より)
大正寺所蔵の文化財
川路聖謨墓
川路聖謨墓
享和元年(1801)4月25日、豊後国日田(現大分県日田市)領代官の部下、内藤吉兵衛の子として生まれ、幕臣川路光房の養子となる。幼名は弥吉または万福。通称を三左衛門尉といい、敬斎と号す。文政元年(1818)支配勘定出役に就任し、評定所留役・寺社奉行調役・勘定吟味役等を歴任。ついで佐渡・奈良・大坂町奉行等を経て、嘉永5年(1852)勘定奉行兼海防掛に任じられた。
翌嘉永6年、米使ペリーの浦賀、露使プチャーチンの長崎来航により、国防の急務を痛感し、江戸湾品川沖に台場を築く。特に露使とは、応接全権となって交渉にあたり、樺太の北緯五十度以南、千島列島エトロフ島のわが国領有を主張した。井伊直弼の大老就任により左遷されるが、文久3年(1863)、外国奉行に起用された。のち病のため退官し、江戸開城直前の明治元年(1868)3月15日に自害した。「長崎日記」「下田日記」「京都日記」など、彼の日記類は貴重な史料である。(台東区教育委員会掲示より)
大正寺の周辺図