千松山本性寺|台東区清川にある法華宗本門流寺院
本性寺の概要
法華宗本門流の本性寺は、千松山と号します。本性寺は、智泉院日達(万治庚子年1660年寂)が開山となり、慶安4年(1651)に創建したといいます。本性寺千松閣は、台東区民葬儀制度摘要対象で、葬儀利用可能です。
山号 | 千松山 |
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院号 | - |
寺号 | 本性寺 |
住所 | 台東区清川1-1-2 |
宗派 | 法華宗本門流 |
葬儀・墓地 | 本性寺千松閣 |
備考 | - |
本性寺の縁起
本性寺は、智泉院日達(万治庚子年1660年寂)が開山となり、慶安4年(1651)に創建したといいます。
御府内寺社備考による本性寺の縁起
京都本能寺末 浅草今戸町
千秋山本性寺 境内九百九拾坪御年貢地
起立不詳。
開山日達上人、万治庚子年七月朔日寂ス。
本尊座像釈迦如来
鎮守三十番神堂
秋山自雲題目堂(秋山自雲延享元甲子年九月廿一日卒ス縁起左ノ如シ)
抑秋山白雲ハ、そのもと摂津国川辺郡小浜の産にして、多田満中朝臣の随一の郎従、藤原仲光の末裔狭間氏なり。其父を六左衛門といふ。其倅善兵衛、東武に下り江戸新川岡田孫右衛門方に奉公す。生質正直にして、日夜懈怠なく守り勤む。其功抜群なるが故に、次第に用られて後は、その家を継て岡田孫右衛門といふ。しかも常に法華を信し奉り、読経唱題も亦日々に断絶なし。然るに三十八歳の頃より痔疾をなやミ、数医手を尽すといへとも更に療用の験なきこと四年、ある医師の日、是難治の症なり、痔を治せんとすれバ躰労内を傷所詮、覚悟あるへきことなりと。是より後、三年ハ必死の安心に住すといへとも、病苦甚しきに依て親友江語けるハ、予死に近く、されハ諸の仏神へ大誓願をおこして、死後痔疾を憂る人を必救ハむど、今ハ只日夜定を願ふ。予七年の間、此難病を受て世の人の此疾をおもひ量の心切なれハなり。没後必此詞を疑ふべからずと申せしとかや。終に延享元年甲子秋九月廿一日、誦経し玄題を唱へて卒す。則当寺へ葬り。法名秋山白雲これなり。其後、何某痔疾にくるしむこと三年、医療しるしなく既に死になんくとす。時に古ほうゆうなるかゆへに自雲のことばをおもひ出て、頻に信願をおこす。さしもの大病二月を過ずして平癒す。是より世上に流布して、遠近の貴賎あゆミをはこびて、痔疾の祈願をいたすに、悉その利益あること、声に闇の応するがことく。今まさに諸人の知る所なり。誠に智者大師日、心能凡夫と成、心能地獄と成、心能聖賢となること、是をもってこれをおもふに、此霊神ハ聖賢となりてあまたの病息をすくふこと眼前にあり。それハ参詣の男女、其来歴をたつぬる人もまたすくなからす。是が為に有の侭の趣を記す。猶信力増進の一ならん。
宝暦十三発未年秋九月
以上乙酉書上
三十番神堂
往古、此地にして日蓮聖人諸宗と問答ありし故、是を橋場の問答と云。伝へて其旧蹟のしるし、今に扇のごとく芝を残し松壱本あり。番神堂と本堂の間なり。(江戸志)(御府内寺社備考より)
本性寺の周辺図