厳念寺|台東区寿にある真宗大谷派寺院

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證誠山厳念寺|台東区寿にある真宗大谷派寺院

厳念寺の概要

真宗大谷派寺院の厳念寺は、證誠山成就院と号します。厳念寺は、遊琳法印が武州足立郡槙村に真言宗證誠山成就院護念寺として建長5年(1253)創建、覚如上人の教化により浄土真宗に改めたといいます。寛永20年(1643)に常陸から浅草鳥越村に寺を移し、厳念寺を定めたといいます。

厳念寺
厳念寺の概要
山号 證誠山
院号 成就院
寺号 厳念寺
住所 台東区寿1-11-2
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 厳念寺ホール
備考 -



厳念寺の縁起

厳念寺は、遊琳法印が武州足立郡槙村に真言宗證誠山成就院護念寺として建長5年(1253)創建、覚如上人の教化により浄土真宗に改めたといいます。寛永20年(1643)に常陸から浅草鳥越村に寺を移し、厳念寺を定めたといいます。

境内掲示による厳念寺の縁起

厳念寺は建長5年(1253)、武州足立郡槙村に真言宗の「證誠山成就院護念寺」として創建されました。開基は遊琳法印という僧侶でしたが、覚如上人の影響を受けて「覚了」という法名をいただき、浄土真宗に改宗しました。
戦乱の中でお寺は移動を重ね、やがて江戸時代初期になってから中興の僧侶・釋宗心によって江戸鳥越村に移り、「厳念寺」となりました。
その後、火事などで場所を変えながら文化13年(1817)年11月18日、浅草新堀端に「證誠山成就院厳念寺」としてお寺を構え、現在に至ります。(境内掲示より)

厳念寺資料による厳念寺の縁起

その昔「太平記」にも登場する戦国武将、楠木正成の末裔が戦いに敗れ常陸に移り、ここで仏門に入った。その後宗心上人が寛永20年に浅草鳥越村に寺を移し、厳念寺を定めたといわれる。
以後、江戸の大火のたびに松清町・清島町と転々し、文化3年に現在の地新堀に築いた。嘉永の頃の江戸得絵図には本堂が西面(現在は南面)し、寺域も広く、大銀杏があることから「新堀の銀杏寺」として親しまれてきた。
明治と関東大震災後の区画整理によって寺域の南と東の部分がきずられ、また戦災で焼失し多くの苦難をなめた。現在の建物は、昭和62年に厳念寺ホール、昭和63年には本堂・庫裡、平成9年3月には会館が相次いで檀信徒の懇志によって建立されたものである。
山号の「證誠」とはまことの言葉で真実を証明する。つまり、お念仏の心で仏道を歩む意味。「厳念」はお念仏で心身を飾るということである。

御府内寺社備考による厳念寺の縁起

そ京都東本願寺末、浅岸新堀端
証誠山成就院厳念寺、境内借地四百坪余
当寺創立之最初ハ真言宗二而建長五年癸丑武州足立郡槇村ニ而証誠山成就院厳念寺と号す。開祖ハ遊琳法印。同国に宗祖聖人の直弟西念房一寺を建立。其後正応年中本山三世覚如上人東国下向の砌、西念房の道場に御逗留ありし時、遊琳霊夢によりて覚如上人ニ拝謁し、聞法歓喜して聖道を捨て一向専修の門に入り、深く真宗に帰服し御弟子となり、一字を給て法名覚了と給ふ。其後諸国争乱故、一所不住にて常陸の国に至り蓮乗寺と改号ス。夫より星霜を経て当寺十一世完納、大坂石山会戦之砌討死ス。然るに其頃楠左衛門正具と云もの、石山に入て顕如上人の弟子となりて大坂ニ住ス。則正具二男正秀(右宗納之従弟也)ともに出家して父の示によりて教如上人に随従ス。石山合戦終て後
東照宮様下野国小山御陣之砌、為御見舞御下向有之候時供奉し関東に下り、教如上人の命によりて東国に残り、常陸国にこへて由緒有之に付蓮乗寺を尋ぬ。然るに宗納石山にて討死せしゆへ住僧もなきにより蓮乗寺二住ス。法名を宗心と改む。中興開基是也。後に江戸へ引寺して蓮乗寺を再興す。最初ハ御曲輪内寺跡有之。寛永年中豊島郡鳥越村二移住シ、又寺号を厳念寺と改ム。然ルに明暦之大火後、本山録所神田浅草へ引地有之。最寄の儀ニ付録新役向法用等被申付。諸事不弁利ニ付録所境内江借地、寺務相続罷在候。右前書之趣地内起立之寺跡ニ無之候。依テ本山江申立許容之上、達
公聴、文化十三子年十一月十八日浅草新堀端江移住之儀蒙免許。同所天台宗龍宝寺地面之内四百坪余借地いたし、以来致居住候事。
開山遊琳法印。正和元子年四月廿九日入寂。
中興宗心法師。正保四亥年八月十四日入寂。
本尊阿弥陀如来立像丈弐尺慈覚大師作
内仏阿弥陀如来立像丈七寸五歩恵心僧都作
以上乙酉書上
当寺創立ハ真言宗にて正応年中武州郡槇村にて証誠山護念寺と号し、開祖遊琳法印といふ。其後諸国争乱の故一所不住にして閑昌寺と改号す。夫より星霜を歴、中興僧宗心法印の時本願寺教如聖人へ随従、浄土真宗に改宗し証誠山厳念寺と又改号し、慶長年間に江戸鳥越村に再ひ当院を起立し、是そ江戸の庄にて浄土真宗道場の始なり。其後血脈相承して明暦年中本願寺浅草へ移りし時、役の故をもて本願寺の境内へ借地して有りしか、当寺ハ子院と云にハあらす。前に記す如く自つから一寺なりし故、其旧跡なることを本山の門主へ聞え、やかて公聴に達し、文化十三子年此所へ移り別に一寺となる。是十二世勅許権律師宣流の時中興せしなり。改撰江戸志
(御府内寺社備考より)


厳念寺の周辺図