金剛山龍宝寺|台東区蔵前にある天台宗寺院
龍宝寺の概要
天台宗寺院の龍宝寺は、金剛山薬王院と号します。龍宝寺は、比叡山正覚院豪海大僧正が慶長4年(1599)神田駿河台観音坂に創建、第三世法印本海の代、寛永12年(1635)に当地へ移転したといいます。
山号 | 金剛山 |
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院号 | 薬王院 |
寺号 | 龍宝寺 |
住所 | 台東区蔵前4-36-7 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
龍宝寺の縁起
龍宝寺は、比叡山正覚院豪海大僧正が慶長4年(1599)神田駿河台観音坂に創建、第三世法印本海の代、寛永12年(1635)に当地へ移転したといいます。
御府内寺社備考による龍宝寺の縁起
東叡山末 浅草不唱小名
金剛山薬王院龍宝寺、境内拝領地三千六百坪門前町屋有之
開山豪海ハ慈眼大師法兄二而
東照宮様御帰依二付、於神田駿河台慶長四乙亥年四月開基被 仰付候。只今駿河台観音坂と呼候ハ当寺之旧地二候由申伝候。寛永十二乙亥年第三世法印本海代於当所替地拝領仕候。境内三千六百坪之内六百三十坪余新堀出来之節上り地二相成追而替地可被下筈之由申伝候。
開山比叡山正覚院豪海大僧正寛永二年三月廿三日比叡山正覚院二於て寂。
本堂
本尊如意輪観音、座像長一尺赤栴壇一本木三国伝来毘首羯磨作古より秘仏同様
本尊縁起
此縁起者東叡山凌雲院第七世住前大僧正実観以自筆記之従当寺六世舜慶伝附之
金剛山竜宝寺第八世住覚順謹書
釈迦牟尼仏出胎の第七日に母摩那夫人功利天にむまれさせ給ひしゆへ、一夏九旬かの天にして刎労の恩を報し姶ふ。その時優慎王此国に仏のいまたたへぬことをうれへ、毘首羯磨に赤栴檀をもて尊像をつくらしむ。これ仏像のはしめにて毘首羯磨も亦仏工のはしめとかや。しかるにいにし慶長の四とせ比叡の山なる正覚院の権僧正豪海と申せしは、その比の名高きひしりなりしを 東照の大君旨を下し、武蔵の国にまねきて神田のほとりに一精舎をたて、住持せしめ姶ふ。僧正かねて山城国宇治の郷なる平等院に毘首羯磨の赤栴檀をもて造られし如意輪観音いまし給ふをしりて 大君に申し此寺に安置す。今の本尊是なり。かくてそ
大君の御意のことくめくりくて国運とゝこほりなく、今ハはや十にひとつの指をかゝめてもなをかそへつくされぬ年月の内、四の海浪しつかに七の道ゆきゝさわらぬ中ハちはや神の代ハとをけれハしらす、人の代になりてハためしあらぬ御代になむつたへきく、あをうなはらの底にいます神の額の上にひめおける宝を如意宝珠と申せハ、この寺の名を竜宝といひ、又本尊の名にさへかよひて 大君の御願の本意僧正の誦念の力今に絶せす。寛永十二年、故ありて精舎をこの浅草にうつされぬ。そのゝち本尊の御名ならひに寺の名まてもあらハれぬ。此寺にまうてゝ此本尊をおかみなは、仏の御世にあへるにおさくおとるましく、かの 大君の神孫代々をかさねてつくはねのかけしけく、むさしのゝ露なかくあをひてくさの末葉まてかゝる神の国に生れて千五百の秋をたのしみ、竜の花さく八万歳の春をまたんことたれかよろこはさらん。
鎮守稲荷社一宇
品照稲垣両大明神(丈四寸ほど各座像)右名付ル由来不知。古来より在来。起立之年不相知。門前之氏神二候。元は社土蔵造拝殿等有之。寅年類焼後仮殿。
銅仏、大工棟梁依田祥甫開眼供善凌雲院実観
以上乙酉書上
本尊ハもと宇治平等院にあり。慶長頃に神田駿河台におゐて当寺御建立也。その比本尊を宇治より当寺へ御寄附なり(江戸志)(御府内寺社備考より)
龍宝寺所蔵の文化財
- 初代柄井川柳墓(東京都指定文化財)
- 正応六年銘不動板碑(台東区登載文化財)
正応六年銘不動板碑
板碑は、供養塔のひとつとして、鎌倉時代初期から桃山時代にかけて、各地で造立されました。関東では、緑泥片岩を材質とした武蔵型板碑が主流を占め、区内に現存する板碑もすべてこの武蔵型板碑に属します。板碑の上部には、阿弥陀如来など特定の仏・菩薩を表した梵字や図像を刻んでいます。これは、お寺の本尊と同じで、主尊といいますが、梵字を主尊とする場合は種子ともいいます。
龍宝寺の板碑は、不動明王を表した種子を刻むため、不動板碑と呼ばれています。区内の板碑でも古い正応年(1293)の紀年銘をもち、地上高155.8cmと大型で彫りも深く、鎌倉時代の板碑の特徴をよく伝えています。
また、下部には即身成仏義を刻みます。不動明王種子と即身成仏義を刻む板碑は、関東でも類例が少なく、鎌倉時代の不動明王信仰や即身成仏思想の様相を知るうえで貴重な歴史資料です。
龍宝寺の周辺図