清水寺|台東区松が谷にある天台宗寺院

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江北山清水寺|慈覚大師が江戸平河に創建、江戸三十三観音霊場

清水寺の概要

天台宗寺院の清水寺は、江北山宝聚院と号します。清水寺は、天台宗総本山比叡山延暦寺座主の慈覚大師(貞観6年864年寂)がり武蔵国江戸平河に創建、その後権大僧都法印慶円(慶長9年1604年寂)が中興開山、馬喰町への移転を経て、当地へ移転したといいます。江戸三十三観音霊場2番札所です。

清水寺
清水寺の概要
山号 江北山
院号 宝聚院
寺号 清水寺
住所 台東区松が谷2-25-10
宗派 天台宗
葬儀・墓地 セレモニーホール妙蓮
備考 江戸三十三観音霊場2番札所



清水寺の縁起

清水寺は、天台宗総本山比叡山延暦寺座主の慈覚大師(貞観6年864年寂)がり武蔵国江戸平河に創建、その後権大僧都法印慶円(慶長9年1604年寂)が中興開山、馬喰町への移転を経て、当地へ移転したといいます。

御府内寺社備考による清水寺の縁起

上野東叡山末 浅草新寺町
江北山宝聚院清水寺、境内古跡拝領地弐千弐百拾三坪
天長年中開山慈覚大師。最初平川ロニ草創。慶長年中御用地二被召上御替地馬喰町江被下置引移り明暦三酉年安藤右京亮様・松平出雲守様寺社御奉行之節、馬喰町被召上代地只今之所拝領仕、万治元年引移り申候。
開山慈覚大師貞観六年甲申正月十四日遷化。
中興開山権大僧都法印慶円。慶長九甲辰八月廿九日寂。住職之年月并事蹟等一向ニ書留物無御座相分り不申候。
客殿。本尊阿弥陀仏木座像、丈二尺三寸後光より台座迠五尺三寸。二脇士観音勢至、各丈ケ弐尺四寸五分後光より台座迠三尺五寸三分木立像。
清水寺額字。妙法院宮尭延親王御筆。右額文化三寅年三月類焼仕、御本紙斗二御座候。
江北山額字。山門正覚院前大僧正豪恕之書二御座候。是は年八拾余ニ而近年終。
観音堂。本尊千手観音、木座像長一尺二寸慈覚大師一刀三礼之作。
縁起左之通
廠れ当山の大悲千眼ハ天長年中我祖慈覚大師 淳和天皇の詔りを奉て一刀三礼に刻ミ給ふ尊像にして霊験世にすくれたりけれハ、詣る道俗の願として満すといふ事なし。洛陽の東山清水を移して江武の平河に草創し姶ふ。其由来を尋に、天長六己酉年九月、天下に大疫流行して上月郷雲客をはしめ下万民に至りて悩ますといふ事なし。貴賎苦悩に沈ミけれハ 天皇深く是を悲給ひ、天下の憂背走朕か身に蔵れりとて、即叡山の座主円仁を(慈覚大師)召れ詔して日く、日比万民大疫の為に多く悩むと聞て深く悲むにたえす。汝よろしく此難を除き払ふ法を修すへしとありけれハ、円仁謹て御請仕り、誓願を発して一刀三礼に千手千眼の尊像を彫刻仕り供養を調備し秘法を修し給ひけるに、国家の大疫悉く除きけると南。円仁関東に下向し給ひて、江武平河に一院を草創して清水寺と号し、末代に残さん為にかの尊像を迎ひ本尊に安置し給ふ。今の本尊是也。抑大悲千眼ハ聖観世音大士補陀落山観音宮殿宝荘厳蓮花獅子の座に坐し姶ひて、悪魔を降伏するか為に変現し姶ふ処の像なり。ゆへに大悲神咒経に説く。起大悲心能断一切繋縛能く減一切怖喪一切衆生蒙此威神悉離告因獲安楽果矣と法末の世に生るゝわなみことき重垢薄福の輩ハ邪神怨魔の為に侵害せらるゝかゆへに、聖観世音菩薩大悲に乗して、此身を現し給ふ。誠に此尊像に帰命するの輩ハ威心力のゆへに邪神怨魔を降伏するといととふとかりける事也。かゝれハ則世間及ひ出世間の勝願を求るものハ此尊に帰命して、この神兄を誦持すれハ、諸願成就すへしとなり。故に慈覚大師ねんころに此尊像を刻ミ給ふ事さらに殊勝なる事なり。冥顕の霊験利益の事ハおふく人のしる処なれハ略して記すと云云。
時文禄三甲午吉祥旦
中興開山沙門慶円謹識
続清水寺観音縁起
そもそも大師千眼ハ由来古縁起のことく誠に霊験たふとき尊像なり。慈覚大師は下野国壬生といふ処に生れたまひける故、関東へ下り洛陽の清水を此地へ移し、かの尊像を迎ひ下し奉り、武城の清水寺となつけ、末の世に広く利益を施すへしとなり。昔時武城の地せまかりLに、慶長十一丙午の頃おひ
東照神君大都城に築き給ふにより、寺地君に用ひられしかは、中比馬喰町に地を給はり、大悲の尊像を移し奉りしに、過にし明暦三丁酉の春火災に逢し時、また此地を下し姶はりて移し安置し奉る。夫よりこのかた火災に懸る事三度に及ヘハ、詣る道俗男女霊験を記せし玉藻も皆悉くに焼失してけり。抑大悲千手眼ハ過去久遠に千光王静住如来の御もとにして誓ひを発して若我末来世におゐて此陀羅尼をもちて一切衆生の願ひのことく救ふ事を得ば、即時に身上に千手千眼を湧出して具足する事を得てんと発願し給ひし時、忽ち身上に千手の御手の湧出御手の内に千の眼開けり。千の内四十二の御手にハ色々の御持物あり。是則官位宝録衣食医薬男女脊属智恵寿命一切衆生の求る所にしたかひて施し姶ふ表相なり。この際羅尼経の中に説き給ひけり。亦十五種の悪死を免れ十五種の書生を得るとしかのミならす、千手陀羅尼を誠持するものゝ衣を吹き翻したる風にあたりぬる人ハ、無量の重罪を消滅すと。これらの功徳たとひ一劫の間称揚讃嘆するとも説き尽す事あたはすと。釈迦牟尼世尊ねんころにとき示し信すへき事を勧め給ひり。五濁悪世に生るゝものハ貴となく賊となく道俗男女たれか此尊を信せさらんや。故に延宝のはしめの比、第四世大僧都法印円順霊験のたうとき事を深く信して日数の護摩をはしめ、天下国家安全を祈り参詣の諸人各願成就の為に怠慢なく修し行ひけるに、霊験を蒙し道俗日々に増し、月々に加はりて数千人に及ひけり。是より代々の住僧日日護摩を修し来りける事己に七十余年におよんて、施主の名帳も信する人と共に残れり。
前立千手観音木座、長一尺四寸五分運慶作。
二脇士勝軍地蔵木立像
勝敵毘沙門木立像
寺中
福生院。本尊阿弥陀木座像
智泉院。本尊阿弥陀木立像
宝殊院。本尊阿弥陀木座像
昌福院。本尊阿弥陀木座像
右四坊は平川ロニ草創之砌より有之事と奉存候へとも、書留等も無之、開基之義も同様難相分候。
末寺
出山寺、本所新井町
以上乙酉書上
江北山清水寺ハ、天長年中慈覚大師今の江城の北の方に於てひとつの勝地を求て天台法流の一院を建立し給ひ、則御自件の一刀三礼の千手観音を安置して末世の衆生のため、国家安全の御いのりをなし給ふ。此故に名付て江北山宝聚院清水寺と号せらる。そのかみハ仏かくいらかをミかき、坊舎軒をつらね、まことに奇麗繁昌のみきりなりけるを、星霜かさなるまゝに漸く人まれにして堂塔破れかたふき坊舎くちたをれたり。それよりこのかた世にしる人なし。こゝに当代三世以前の師を慶円法印と名つく。ある夜の夢に齢八旬斗の老翁忽然として来り、慶円にかたりてのたまハく、我ハ当寺守護のあるしなり。汝しバしバわか名をとなふ。ねかハくハ此寺を再興して我にあたへよとかたり姶ふと見て、夢ハさめにけり。誠にあらたなる御霊夢のつけ心肝に銘す。されとも心にのミこめて人にかたる事なし。其後文禄年中にいたりて比叡山にのほり、正覚院の探題豪感僧正にまみえ夢想の事を語り出し、ふたゝひ古の寺号院号山号をたてゝ、江北山宝聚院清水寺と号す(江戸名所記)(御府内寺社備考より)

清水寺所蔵の文化財

  • 千手千眼観世音坐像(台東区登載文化財)

千手千眼観世音坐像

観音菩薩は、時機に応じて33の姿に化身するといわれ、千手観音はそのひとつとしてよく知られています。
当寺は、伝承によれば、平安時代の高僧慈覚大師円仁(794-864)が武蔵国平川(現在の皇居平川門付近)に創建、慶長年間(1596~1614)徳川家康の江戸城改修にともない日本橋馬喰町へ移転し、万治元年(1658)現在地に移ったといいます。
清水寺の千手観音坐像は、像高37.7cm。正面・左・右に合わせて42本の腕を具え、さまざまな物を持っています。
面長な顔、ややふくらみのある頬に鎌倉時代の特徴が現れていますが、面相(目・鼻・口など)や着衣の彫り型が、同時代の仏像に比べて固さが見られるため、南北朝時代の制作と思われます。
また、平成8~9年にかけて本像の修理を行った際、胎内より古文書が発見されました。それによりますと、当寺の中興に努めた慶圓という僧侶が、慶長7年(1602)に現世安穏・後生善処を祈って、「法華経普門品(観音経)」や「菊水延命経」を唱えた、と記しています。
おそらく、慶長7年にも本像の修理を行い、完成に際して右のような経典を唱え、その旨を記録したものと考えられます。


清水寺の周辺図