華嶽山梅林寺|江戸25天神の綱敷天満宮
梅林寺の概要
曹洞宗寺院の梅林寺は、華嶽山と号します。梅林寺は、天室修悦(文禄3年1594年寂)が開山となり、龍源寺と称して小塚原(現荒川区南千住)に創建、当寺に帰依した伊勢龜山城主石川主殿頭忠總の庶子甚十郎邦總が、綱敷天神と共に当寺を当地へ承応3年(1654)に移転、華嶽山梅林寺と改号したといいます。綱敷天神は里見氏が拠った市川国府台城の鎮守で、里見氏の什宝だったと伝えられて、江戸25天神のひとつに数えらます。境内には、8代将軍徳川吉宗の命で、採薬師として諸国をめぐり、小石川薬草園を開園した阿部友ノ進の墓があります。
山号 | 華嶽山 |
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院号 | - |
寺号 | 梅林寺 |
住所 | 台東区三ノ輪1-27-3 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 江戸25天神のひとつ綱敷天満宮 |
梅林寺の縁起
梅林寺は、天室修悦(文禄3年1594年寂)が開山となり、龍源寺と称して小塚原(現荒川区南千住)に創建、当寺に帰依した伊勢龜山城主石川主殿頭忠總の庶子甚十郎邦總が、綱敷天神と共に当寺を当地へ承応3年(1654)に移転、華嶽山梅林寺と改号したといいます。綱敷天神は里見氏が拠った市川国府台城の鎮守で、里見氏の什宝だったと伝えられています。
「下谷區史」による梅林寺の縁起
梅林寺(三ノ輪町八九番地)
常陸源照寺末、花嶽山と號す。本尊正観世音。當寺は文禄三年僧日龍の開基するところ。初めは千手小塚原にあつて龍源寺(或は宗泰寺とも傳ふ)といつでゐたのを萬治年中伊勢龜山城主石川主殿頭忠總の庶子甚十郎邦總、當時の住持知海説音に歸依し、その臣向坂八兵衛長次と謀り、小塚原裏字天神山に安置せる綱敷天神(或は縄敷天神といふ。この像は比叡山法性坊尊意の作にて安房里見氏の什寶、國府臺城の鎮守であつたと傳へられる。長次は里見氏の舊臣でもと平井氏を稱したとも傳へられる)と共に現地に轉じ、花嶽山梅林寺と改稱したと今の寺傳ではいうてゐる。然るに明治の初めの書上である寺院明細帳には元文二年の創立にて開基知海説音といひ、新編武蔵風土記稿には「寺記に承應三年の起立といへど、開山天室修悦は文禄三年二月二十日寂せしなれば、承應は當所に移りし時の年歴なるべし」と當時の寺傳の推測を記してゐる。即ち當寺の起立年代は區々決せぬが、想ふに文禄年間千手に草創せられ、承應乃至萬治年中に三輪(明治に至り同町九一番地に編入せらる)に移つたのであらう。そして大正癸亥大震火災の區割整理に伴ひ、昭和二年十一月現地番に轉じた。昔時は境内に天満宮を祀れるに因み梅樹多く、寺名もそれに基いて名けられ、門前の小徑は梅ヶ小路と呼ばれたほどであつた。又吉原の妓高雄常に化粧の水にするため特に汲ましめたと傳へられる「芭蕉の井戸」なるものもあつたが、梅と共に明治に至つて亡びてしまつた。寺内に本草學の泰斗阿部将翁の墓がある。(「下谷區史」より)
新編武蔵風土記稿による梅林寺の縁起
梅林寺
禅宗曹洞派、常陸国新治郡宇治会村源然寺末、花嶽山と号す。古は龍源寺と号し、小塚原邊にあり。寺記に承応3年の起立といへど、開山天室修悦は文禄3年2月20日寂せしなれば、承応は当初へ移りし時の年暦なるべし。本尊釈迦を安す。其の後
綱敷天満宮。神体は此叡山法性坊尊意の作と云。境内の鎮守なり。(新編武蔵風土記稿より)
梅林寺所蔵の文化財
- 阿部友之進(阿部将翁)の墓(東京都指定旧跡)
- 木造綱敷天神坐像(台東区登載文化財)
木造綱敷天神坐像
曹洞宗花嶽山梅林寺は、はじめ小塚原(現荒川区南千住)にあり、龍源寺と称していました。本像は、もと下総里見氏の鎮守で、慶長の里見家没落の際、家臣が下総平井村(現江戸川区平井)に移し、やがて小塚原に祀られ、17世紀中頃に伊勢亀山藩士が、主君の病気平癒祈願のため、小塚原の本像とともに龍源寺を現在地に移し、梅林寺と名を改めたといわれます。安政大地震で、天満宮祠は全壊し、大正4年の勧進により建立、昭和42年本堂に移され現在に至ります。
本像は、ヒノキ材製で、像高20.8cm、髪際高17.1cm。束帯姿で、口をやや開き、顎髭を垂らし、眼をいからして綱座に坐る珍しいものです。室町時代末期に制作されました。
当寺には、九州で菅原道真が、綱座を勧められ我が身の哀れを嘆いたところ、土地の者が「これは帆綱で自分には命綱だから都の敷物に決して劣らない」と諌めたという伝承があります。綱敷天神はみな忿怒形をしており、不遇に対して怒る道真を現します。しかし、江戸時代後期には、為永春水作『園の花』によると、梅林寺綱敷天神を除災招福の神として信仰するように変わったことがわかります。
本像は、秘仏であるため、一般には非公開です。(台東区教育委員会掲示より)
梅林寺の周辺図