光照山西徳寺|真宗佛光派の江戸触頭、佛光寺門跡寺院
西徳寺の概要
真宗佛光寺派寺院の西徳寺は、光照山と号します。西徳寺は、本山仏光寺の出張所として、京都五條坊門にあつた寺跡を移し寛永5年(1628)金助町(本郷付近)に創建、承応3年(1654)善如が初代住職に就任、浄土真宗佛光寺派の觸頭を勤め、天和3年(1683)竜泉に移転したといいます。明治以後、佛光寺門跡寺院を称することになったといいます。
山号 | 光照山 |
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院号 | - |
寺号 | 西徳寺 |
住所 | 台東区竜泉1-20-19 |
宗派 | 真宗佛光寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 江戸触頭 |
西徳寺の縁起
西徳寺は、本山仏光寺の出張所として、京都五條坊門にあつた寺跡を移し寛永5年(1628)金助町(本郷付近)に創建、承応3年(1654)善如が初代住職に就任、浄土真宗佛光寺派の觸頭を勤め、天和3年(1683)竜泉に移転したといいます。明治以後、佛光寺門跡寺院を称することになったといいます。
「下谷區史」による西徳寺の縁起
西徳寺(龍泉寺町四五番地)
京都佛光寺末、光照山と號す。本尊阿彌陀如来。(大正十二年九月焼失)寛永五年五月、本郷金助町に起立、もと京都五條坊門にあつた寺跡を寫したのである。初めは本山より役僧を差遣してゐたが、承應三年役僧善如(元禄三年二月二十一日寂)を住持としてより代々住持あり、佛光寺派の觸頭を勤め、年頭その他の江戸城登城には獨禮格であつた。舊地屡々祝融子の災に罹つたので天和三年四月現地に移轉した。明治以後、佛光寺門跡寺院と稱することゝなつた。なほ當寺には、後西天皇宸筆の六字名號、見真大師筆六字名號その他數多の什寶があつたが、大正癸亥の大震火災に歸してしまつたのは惜しむべきである。
境内に太子堂あり、歌人菅沼斐雄の墓がある。太子堂は聖徳太子を安置する。之は相模藤澤驛加藤氏邸に古来安置せられてあつたのを、同所萬福寺良寛に靈告があつたのに基き、當寺へ納めたのであると傳へられる。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による西徳寺の縁起
仏光寺御門跡末 下谷龍泉寺町
光照山西徳寺 境内古跡年貢地1665坪
起立之儀者寛永5年本山の役僧差越被置候。承応3年役僧善如ヘ住職被申付、其以来触頭相勤候事。但旧知者本郷金助町ニ候処、天和3年御用地被召上、当地ヘ替地被仰付候事。(御府内寺社備考より)
西徳寺所蔵の文化財
- 木造阿弥陀如来立像(台東区登載文化財)
- 木造聖徳太子孝養像(台東区登載文化財)
木造阿弥陀如来立像
西徳寺は京都仏光寺末の浄土真宗寺院です。寛永5年(1628)に本郷金助町(現文京区本郷3丁目)に建立され、天和3年(1683)に現在地に移転しました。本像は、当寺本堂内の須弥壇上に本尊として安置されています。台座裏面の墨書銘文には「奉寄進/御本尊/元文三/四/とあり、元文3年(1738)4月に本尊として寄進した旨を記しています。
西徳寺の木造阿弥陀如来立像は、像高99.0cm。肉髻珠・白毫相には水晶が嵌め込まれ、左手は垂下、右手は腕を曲げて来迎印を結びます。左足を僅かに踏み出して立っている姿は、阿弥陀如来が浄土から来迎する様を表しています。
こうした来迎する阿弥陀如来立像は、鎌倉時代初期に仏師快慶によって定型化されました。しかし本像は基本的にその形に従いながら、着衣の形に変化がつけられています。衣文線の形式化とあわせて考えると、鎌倉時代後期の制作と思われます。また精緻な切金文様にも鎌倉時代の作風が見てとれます。
本像は区内現存の阿弥陀如来立像の中でも古いもののひとつであり、加えて当初の切金文様を残しており貴重な作品です。
木造聖徳太子孝養像
10世紀頃に、太子の伝記である『聖徳太子伝暦』が成立し、普及するようになると、『伝暦』に準拠した様々な聖徳太子像が作られるようになりました。孝養像は太子が16歳のとき父である用明天皇の病気平癒を祈ったという説話をもとにその姿を表しています。
西徳寺の聖徳太子孝養像は像高71.3cm。髪は中央で分け、角髪に結っています。衣装は袍を着し、袈裟を右肩に着け(褊袒右肩)、左肩前で吊っています。横被は肘下へ回し、右手首下でその端を左手で押さえています。右手は胸前で柄香炉を持ちます。裳を着け、沓を履いて両足をそろえて立つ、聖徳太子の孝養像として形式に則った像です。
西徳寺は京都仏光寺末の浄土真宗寺院です。寛永5年(1628)に本郷金助町(現文京区本郷3丁目)に起立し、天和3年(1683)に現在地に移転しました。孝養像は本堂内、左側の須弥壇に安置されています。当寺に現存する資料には、この像の伝来を示すものはありませんが、『御府内寺社備考』の西徳寺項に
太子堂 三間四方 同拝堂 四間三間
聖徳太子像 運慶作 丈二尺三寸五分
右相州藤沢之住加藤何某所持ニ候処享保五年
八月廿一日慶想ニ依当寺奉納有之候
とあり、この聖徳太子像の丈は本像の像高にほぼ符合します。両者が同一の像であるならば、造立後のある時期、相模国藤沢の住人加藤某の持仏となり、享保5年(1720)8月に西徳寺に奉納されたものです。しかし、加藤氏と当寺との関係や「慶想」の内容などは不明です。
本像は、面相や衣文の作風から17世紀末の制作と考えられ、その造形は堅実な彫技によって表現されています。区内に現存する聖徳太子像の中では、古い制作年代に属し、優れた作品のひとつとして、貴重です。
西徳寺の周辺図