輪王寺|東叡山の本坊、輪王寺宮の上野御殿、両大師堂
輪王寺の概要
天台宗寺院の輪王寺は、東叡山寛永寺の本坊で、寛永寺2世公海が日光山輪王寺貫主を兼務、九条幸家の猶子となったことから摂家門跡に列し、その後後水尾天皇第三皇子の守澄法親王が正保4年(1648)寛永寺座主三世となり、承応3年(1654)には日光山門主となって東叡山に住し、比叡、日光、東叡の三山を管領、明暦元年(1655)に後水尾上皇から輪王寺の称号を賜わり、東叡山住職を輪王寺宮と称することになったといいます。幕末の戊辰の役で諸堂焼失、明治2年輪王寺の称号が廃止されたものの、明治16年復活し、門跡の公称が許可されています。
山号 | 東叡山 |
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院号 | - |
寺号 | 輪王寺 |
住所 | 台東区上野公園14-5 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
輪王寺の縁起
輪王寺は、東叡山寛永寺の本坊で、寛永寺2世公海が日光山輪王寺貫主を兼務、九条幸家の猶子となったことから摂家門跡に列し、その後後水尾天皇第三皇子の守澄法親王が正保4年(1648)寛永寺座主三世となり、承応3年(1654)には日光山門主となって東叡山に住し、比叡、日光、東叡の三山を管領、明暦元年(1655)に後水尾上皇から輪王寺の称号を賜わり、東叡山住職を輪王寺宮と称することになったといいます。幕末の戊辰の役で諸堂焼失、明治2年輪王寺の称号が廃止されたものの、明治16年復活し、門跡の公称が許可されています。両大師堂には、寛永寺を創建した慈眼大師(天海大僧正)と、慈恵大師(良源大僧正・元三大師・元旦三日に入寂)の両大師が祀られています。
東京名所図会による輪王寺の縁起
輪王寺
輪王寺は焼失後境地は公園地博物館となりし為め開山堂東南の方に昨明治廿八年一月落成せしも是又其形を存するに止まり未た門跡寺院の恪合には至らず乍去輪王寺御初代守澄法親王殿下より鎮護王院能久親王殿下に至る迄御歴代尊牌を安置し御供養文は差支なき迄に相成居るなり先は貴答迄斯の如く草々。(東京名所図会より)
「全国寺院名鑑」による輪王寺の縁起
輪王寺(門跡寺院)
東叡山寛永寺の本坊。寛永二〇年寛永寺開山の天海が没し、二世公海が下野日光山輪王寺貫主をかね、のち九条幸家の猶子となり摂家門跡に列した。正保四年後水尾天皇第三皇子守澄法親王が寛永寺座主三世となり、承応三年日光山門主となって東叡山に住し、比叡、日光、東叡の三山を管領した。翌明暦元年後水尾上皇から輪王寺の称号を賜わり、以来東叡山住職を輪王寺宮と称した。輪王寺とは東叡、日光両山兼任の住持の門室号でその住居は当山本院であった。慶応四年の戊辰の役で諸堂焼失、明治二年輪王寺の称号および東叡、日光両山の本山号廃止、延暦寺が総本山となった。同一六年輪王寺の称号復活し、門跡の公称許可され、東叡山は寛永寺のほかに当寺輪王寺門跡をたてた。同二七年諸堂建立、同三九年現在地に移転した。その後昭和二〇年戦災で焼失したが、のち再修造して現在にいたる。(「全国寺院名鑑」より)
輪王寺の周辺図