宗恩寺|佐々木三郎佐兵衛尉盛綱が三河に創建
宗恩寺の概要
真宗大谷派寺院の宗恩寺は、法然上人の門弟で、後に親鸞上人の弟子となった西念(佐々木三郎佐兵衛尉盛綱)が、龍華山浄教寺と号して三河に創建、元和年間に江戸本郷へ移転し宗恩寺と改めたといいます。境内には仏教大辞典を著した真宗大谷派僧織田得能の墓があります。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | 宗恩寺 |
住所 | 台東区西浅草1-6-7 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宗恩寺の縁起
宗恩寺は、法然上人の門弟で、後に親鸞上人の弟子となった西念(佐々木三郎佐兵衛尉盛綱)が、龍華山浄教寺と号して三河に創建、元和年間に江戸本郷へ移転し宗恩寺と改めたといいます。
「真宗東派明細簿」による宗恩寺の縁起
東派本願寺末武蔵國豊島郡浅草松清町六十一番地
真宗 宗恩寺
開基西念者佐々木三郎佐兵衛尉盛綱一世ノ草建都而五山モ又其随一也初法然上人之門弟ナリ後ニ祖師聖人ニ随従ス三河國ニ在テ龍華山浄教寺ト号ス爾後十壱世道御筑列柳川立花宗皈依不淺而親睦日久シ元和年間武府江戸本郷移轉シ各一字ヲ並テ正ニ宗思寺ト号ス立花ト改ム則チ南光坊額ニ書シ候然所万治弐年火災ノ為ニ焼失其後立花飛騨守再額面ニ書シ于今堂内票之寺格(「真宗東派明細簿」より)
宗恩寺所蔵の文化財
- 織田得能墓
織田得能墓
織田得能は、明治時代の真宗大谷派の僧侶。わが国初の仏教の辞典「仏教大辞典」を著した人物として殊に有名である。
万延元年(1860)福井県坂井郡波寄村(福井市)の翫香寺住職である生田氏の三男として生まれる。郷里で教員をつとめたのち、真宗大谷派の高倉学寮で仏教学を修め、明治23年、島地黙雷とともにインド・中国・日本の仏教史を述解した「三国仏教略史」を編纂し、翌年宗恩寺第24世住職となり、織田姓を名乗った。また、同33年には、岡倉天心とともに、インド・中国の仏跡を訪ねまわり、その見識をさらに高めた。
「仏教大辞典」の執筆は、明治32年から、得能が亡くなるまで、宗恩寺の土蔵の中でただ一人の力で続けられた。生存中には刊行されることはなかったが、大正6年、彼の原稿を元に、上田万年・芳賀矢一、南条文雄・高楠順次郎によって刊行され、後学に大きく貢献した。
彼の遺骸は、当時境内の歴代住職墓に合葬された。平成6年10月には、得能の筆「念佛成仏」の四文字を模刻した頌徳碑を建立した。(台東区教育委員会)
参考資料
- 「浄土真宗東派明細簿」
宗恩寺の周辺図