日照山長明寺|台東区谷中にある日蓮宗寺院
長明寺の概要
日蓮宗寺院の長明寺は、日照山と号します。長明寺は、在天院日長聖人(元和6年1620年寂)が開山となり、開基志村八兵衛尉夫の妻の法号(蓮光院殿日照禅尼)より日照山と号して慶長14年(1609)に起立、大正年間に谷中正運寺を合寺したといいます。
山号 | 日照山 |
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院号 | - |
寺号 | 長明寺 |
住所 | 台東区谷中5-10-15 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長明寺の縁起
長明寺は、在天院日長聖人(元和6年1620年寂)が開山となり、開基志村八兵衛尉夫の妻の法号(蓮光院殿日照禅尼)より日照山と号して慶長14年(1609)に起立、大正年間に谷中正運寺を合寺したといいます。
「下谷區史」による長明寺の縁起
長明寺(谷中初音町三丁目三八番地)
京都本圀寺末、日照山と號す。本尊寶塔題目(多寶、四菩薩、不動、釋迦、四天王、愛染)木像十二體。慶長十四年麾下の士志村八兵衛が戦死者の亡靈を弔はんがために自邸に當寺を開基し、僧日長(元和六年九月晦日寂)を招いて開山とした。八兵衛は寛永四年九月十二日死去、法名を了達日義といふ。寺中に蓮行院、常誦坊、了玄坊及び三十番神堂、稲荷社等があつたが、今廢せられた。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による長明寺の縁起
京都本圀寺末 谷中不唱小名
日照山長明寺 境内拝領地2578坪余
慶長14年起立。開山在天院日長聖人、字尊門。元和6年9月晦日遷化。開基志村八兵衛尉、寛永4年9月12日死去。法号円通院殿了達日儀居士。同人妻、寛永6年3月14日死去。法名蓮光院殿日照禅尼。此日照禅尼之日号ヲ以、即日照山ト名ヅク。此志村八兵衛尉ハ甲州之人ニ而 神君様奉仕、知行150石ヲ賜リ罷在候処、軍死亡霊之為仲自身拝領之地ニ一宇之寺ヲ建立す。当長明寺是也。(御府内寺社備考より)
合寺した谷中正運寺について
京都本圀寺末 谷中三崎町
立光山正運寺 境内拝領地500坪、割余御添地48坪
開闢慶長5年。往古は谷中東寺町ニ御座候処、元禄年中当所ヘ引寺ニ相成候得共、慥なる記録無御座候。
開山寿童日運、寛永2年6月16日遷化。
客殿5間半ニ4間。本尊三宝祖師、祖師日蓮像丈7寸日向作。(御府内寺社備考より)
長明寺にある台東区登載文化財
- 銅鐘(平成12年度登載)
銅鐘
長明寺の銅鐘は、総高が122.9cm、口径が75.1cmです。 銘文によると、天和2年(1682)初冬(10月)16日、当寺檀那屋代安次が自らの逆修供養のために寄進しました。逆修とは生前に自分の死後の冥福を祈るため仏事を修することです。この鐘を鋳造した鋳物師は、椎名伊予良寛です。鋳物師の椎名家は江戸時代初頭に多くの作例を遺し、椎名伊予吉次を初代とする江戸鋳物師の名家です。
椎名伊予良寛は延宝9年(1681)頃から元禄13年(1700)頃にかけて活躍した鋳物師で、およそ26点の作品を残しています。内訳は銅鐘が19点、銅燈籠が2対4点、宝塔・水盤が各1点です。とくに宝塔は、上野寛永寺にある徳川将軍墓のひとつで、4代将軍家綱(厳有院)の墓です。このように将軍家の墓の鋳造を任されている事からも、椎名良寛が当時実力を伴った著名な鋳物師であったことがわかります。
本銅鐘は、区内に現存する銅鐘の中でも比較的古いものに属します。加えて鋳造者の椎名良寛は、当代一流の鋳物師の一人であり、鋳物師椎名家の活動を知る上でも貴重な遺品です。
長明寺の周辺図
参考資料
- 御府内寺社備考
- 「下谷區史」