大道山興禅寺|台東区谷中にある臨済宗興聖寺派寺院
興禅寺の概要
臨済宗興聖寺派の興禅寺は大道山と号します。興禅寺は、天海慈眼大師(寛永10年1643年寂)が開基となり、天台宗寺院として創建、天海慈眼大師が興聖寺を訪れたことを機に天台宗・臨済宗兼学寺院となっていたといいます。
山号 | 大道山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 興禅寺 |
住所 | 台東区谷中5-2-11 |
宗派 | 臨済宗興聖寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
興禅寺の縁起
興禅寺は、天海慈眼大師(寛永10年1643年寂)が開基となり、天台宗寺院として創建、天海慈眼大師が興聖寺を訪れたことを機に天台宗・臨済宗兼学寺院となっていたといいます。
「下谷區史」による興禅寺の縁起
興禅寺(谷中上三崎北町二三番地)
京都興聖寺末、同相國寺所轄、清徳山と號す。本尊正観世音。起立年月は不明であるが、初め關東天台宗にて来迎寺と稱したが、天海僧正その建仁寺開山千光國師の法孫たるの故を以て禅味を忘れざらんがため寛永の末當寺を宇治興聖寺に屬し、禅、天台を兼學せしめ、現名に改めしめた。そして公事は總て東叡山の所轄となり、法勢上住職進退等は本山興聖寺の指揮を受けることゝなつた。寛文九年本山より拙堂和尚来り住し、伽藍を再建し、檀徒を募り、境内を擴張した。その功多きを以て當寺開祖第一と稱してゐる。明治六年、政府の許可を受け臨済宗に改め、公事は京都相國寺の所轄となり、住職進退等法務上のことは從前の如く本寺興聖寺の指揮を仰ぐことゝなつた。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による興禅寺の縁起
興聖寺東叡山両末 谷中不唱小名
清徳山興禅寺 境内拝領地311坪東叡山領年貢地360坪
当寺は天台禅ニ宗兼学ニ而京都興聖寺東叡山両末ニ属候得とも諸事東叡山之御支配請申候。開基天海慈眼大師寛永10年10月2日寂。開山興聖寺四世拙堂祖玄大和尚元徳6年4月5日寂
当寺禅天台兼学の事ハ慈眼大師本山興聖寺へ来りし時、虚応和尚ヘ伝法有。それより本山禅天台兼学となれり。興聖寺四代拙堂和尚関東ヘ下り大師と禅学の友なり。故に大師力を添て当寺を建立せしむ。是に依て両学兼学となりし也(御府内寺社備考より)
興禅寺の周辺図
参考資料
- 御府内寺社備考
- 「下谷區史」