鏡意山能満寺|江戸幕府より寺領7石2斗の御朱印状
能満寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の能満寺は、鏡意山と号します。能満寺は、(瑞雲寺を開基した)瑞雲寺殿喜渓忻大姉が開基となり、応永5年(1398)に創建、当初秋川南岸の能満寺山にありましたが、元亀3年(1572)当地へ移転したといいます。江戸幕府より寺領7石2斗の御朱印状を受領、また当寺住職を退隠した亀齢和尚(天文4年1535年寂)は地内に常照寺を開山したほか、山田天神社の別当を勤めていました。
山号 | 鏡意山 |
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院号 | - |
寺号 | 能満寺 |
住所 | あきる野市山田879 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 誠和保育園 |
能満寺の縁起
能満寺は、(瑞雲寺を開基した)瑞雲寺殿喜渓忻大姉が開基となり、応永5年(1398)に創建、当初秋川南岸の能満寺山にありましたが、元亀3年(1572)当地へ移転したといいます。江戸幕府より寺領7石2斗の御朱印状を受領、また当寺住職を退隠した亀齢和尚(天文4年1535年寂)は地内に常照寺を開山したほか、山田天神社の別当を勤めていました。
新編武蔵風土記稿による能満寺の縁起
(山田村)
能満寺
境内寺領の内なり、村の東にあり、これも臨済派にて廣徳寺の末寺なり、鏡意山と號す、寺領七石二斗の御朱印を賜へり、開山心源和尚應永十年十月十三日寂せり、本堂八間に五間半、南向、本尊虚空蔵を安す、
薬師堂。境内南の方にあり、西へ向へり、三間四面、相傳ふ、此堂古は秋川を隔て向にありしが、元龜三年再建の時境内へ遷座せり、
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常照寺
村の東の方能満寺御朱印の内にあり、もと能満寺の住持華陰和尚の造立にて、天福菴と號し、能満寺持の菴なりしが、後に龜齢和尚のとき、一寺とし天神山常照寺と號せり、故に龜齢和尚を以開山とす、和尚は天文四年二月十日寂す、今に能満寺隠居の住所とせり、本堂四間に六間、南向なり、本尊は薬師を安置す(新編武蔵風土記稿より)
「五日市町史」による能満寺の縁起
能満寺(山田八七九番地)
臨済宗建長寺派に属し、山号を鏡意山と称す。寺伝によれば、創立は応永五年(室町初期-一三九八)で、開山は心源希徹禅師、開基は瑞雲寺殿喜渓忻大姉である。当山は古くは秋川を隔てた向かい側にあったが、元亀三年(一五七二)に、現在地に遷し再建されたと伝えられ、今も旧地を「能満寺山」と称している。徳川家康以来、代々の将軍より七石二斗の御朱印が寄せられていた。伽藍は嘉永六年八月(一八五三)に焼失、その後再建、更に明治二十七年二月に近隣からの出火により類焼、現今の本堂兼庫裡は明治二十八年に造られたものである。本尊は虚空蔵菩薩で、境内地は四二五坪あり、毎年七月十日に大施餓鬼会が行われる。
境内に薬師堂があり、韓日は九月十一日、現在の堂宇は昭和三十七年に改築されたものである。また当寺の東方御朱印地内に、能満寺の住持華陰和尚の造立した「天福庵」と称する庵があり、室町末期頃に至り、亀齢和尚(天文四年二月十日寂)がこれを一寺として天神山常照寺と号した。そこで同和尚を開山とした。本尊は薬師如来で、江戸中期頃は能満寺の隠居寺となっていたが、明治初年に同寺に合寺した。現在の山田下分八二二番地の墓地は旧常照寺墓地であり、山田の天神社は同じく常照寺の寺護鎮守で、同寺で祭祀を行っていた。(「五日市町史」より)
能満寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「五日市町史」