渓照山光岳寺|於大の方所縁の寺院、旧山の手三十三観音霊場
光岳寺の概要
浄土宗寺院の光岳寺は、渓照山西向院と号します。光岳寺は、傳通院殿(於大の方)荼毘地に、傳通院第四世叡譽聞悦上人聞悦大和尚の発願によって、その高弟業蓮社成譽上人龍公廓呑大和尚を開山として正保元年(1645)に創建、於大の方の法号(傳通院殿容譽光岳智光大禅定尼)より光岳寺と号したといいます。昭和9年飛田給に移転、昭和19年当地に移転したといいます。山の手三十三観音霊場5番です。
山号 | 渓照山 |
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院号 | 西向院 |
寺号 | 光岳寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 調布市富士見町1-36-1 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
光岳寺の縁起
光岳寺は、傳通院殿(於大の方)荼毘地に、傳通院第四世叡譽聞悦上人聞悦大和尚の発願によって、その高弟業蓮社成譽上人龍公廓呑大和尚を開山として正保元年(1645)に創建、於大の方の法号(傳通院殿容譽光岳智光大禅定尼)より光岳寺と号したといいます。昭和9年飛田給に移転、昭和19年当地に移転したといいます。
「調布市百年史」による光岳寺の縁起
光岳寺
渓照山西光院と号し浄土宗、もと小石川伝通院の下寺であった。
<開基>正保元申年(一六四四)伝通院四代叡誉聞悦
<開山>成誉廓呑、中興開山、弁誉観了
<本尊>阿弥陀如来
徳川家康の母堂は、戦乱中に他界し、信州小諸の光岳寺に仮埋葬されたが、のちに家康が江戸に入国してから、小諸から江戸に移され、荼毘に付された。その地を佐野淡路守(周防守ともいう)が寄進し、この寺を建立したのである。その後明暦三年(一六五七)、江戸の大火(俗に振袖火事という)、明和年間と再三火災にあっている。
昭和九年、教育大学の敷地拡張などにより、旧地小石川竹早町から、当時の調布町飛田給に移転したが、同一九年、調布飛行場建設のため、ふたたび移転しなければならなかった。当時調布町北裏一帯は農地で、さえぎるものもなく、飛田給から現地まで、堂宇をそのまま映すことができたという。境内に太田道灌稲荷、俳人寥太の墓、小川泰山の墓などがある
(太田道灌稲荷)
かつて麻布一口坂の屋敷内にあり、道濯が深く信仰していた稲荷である。のちに、神田駿河台の火消与力寄場に移されたが、他にも太田姫稲荷と称する一社があったため、幕府が倒れてから、本寺に移されたという。
<俳人寥太の墓>
東京都史蹟に指定されており、境内には自書を刻んだ句碑もある。
夏痩の我骨さぐる寝覚かな 寥太
この碑は寥太の弟子班石が、当時の住職遠誉上人(俳号を魯州という)の協力を得、安永一〇年(一八七一)三月に建立したもので、これを寝覚塚と呼んだ。この塚は光岳寺の移転とともに移され、現在は門の右手、植込の中に苔むして俳人の面影をしのばせている。そばに昭和一一年丙子年春三月の銘で、塚の由来および昭和九年秋光岳寺が旧地を移るに際し、有志の賛助を得たことを記した石標がある。
<小川泰山の墓>
泰山は明和(一七六四~一七七二)年間に江戸に生まれた。資性明敏、早くより奇童、神童と呼ばれ、幼時から学に志し、山本北山について学んだ。項羽の「書は以以て姓名を記するに足るのみ」を読んで深く感じ、以後の勉学は人の眼を見はらせるものがあった。大風雪をものともせず、死にひんしながらも屈せず、師のもとに至った逸話は、かつての小学校教科書に載せられている。
一五歳のとき、実家柳原氏のために碑文を撰し、その将来を期待されたが、天明五年(一八七五)五月二二日、病のためわずか一七歳で世を去った。
当寺は、江戸時代旗本寺として栄え、所蔵の過去帳には松平播磨守、牧野備後守、安藤対馬守、酒井雅楽守など、いわゆる三河以来の功臣の名が連なり、大久保彦左衛門の喧嘩相手として知られた川勝丹波守の名も見える。
寺宝の一つに「東照大権現夏御陣御画像」と箱書のある家康の坐画像がある。川勝家累代の家宝で、明治一二年、その子孫から奉納されたものという。(「調布市百年史」より)
「小石川區史」による光岳寺の縁起
渓照山西向院光岳寺。浄土宗鎮西派、傳通院末。本尊阿彌陀如来。當寺の地は家康の生母傳通院殿荼毘の遺跡地で、正保元年傳通院第四世叡譽聞悦上人の發願により、此の地に二寺を創し、傳通院殿容譽光岳智香大姉の法號により、一を光岳寺、他を智香寺と名付け、當寺にはその高弟業蓮社成譽上人廓呑和尚を開山となした。開山成譽上人は承應三年九月十八日入寂したが、嫡弟辨譽歡了上人(中興開山とも云ふ)が更に法燈をあげ、爾来門資連綿として今日に至つた。『文政書上』には『境内は古跡拝領地千八百坪、内門前町屋有之』と記されてゐる。猶江戸の儒者小川泰山の碑文が境内にある。(「小石川區史」より)
東京名所図会による光岳寺の縁起
光岳寺
光岳寺は竹早町百十七番地に在り。渓照山と號し。西向院と稱す。浄土宗にして傳通院末なり。
江戸志に云。開基は本山傳通院中興四世叡譽悦大和尚發起也。開山は叡譽の高弟業蓮社成譽上人龍公廓呑大和尚。正保元甲申年建立也。其の由来を尋るに。御尊母傳通院殿容譽光岳智光大禅定尼荼毘所たるに因て。成譽信譽相共に心を合せ。公聴に達し。一丁四方の地を拝領し両寺となし。光岳智光の尊號を以て寺號となす。成譽上人は承應三甲午年九月十八日寂す。嫡弟中興辨譽歓了上人。當寺に於て法燈を炳てより爾来門資連綿なり。
本尊恵心僧都、二脇士後人作。
傳通院殿尊牌、尊霊石碑境内に在り
観音堂、山の手五番、聖観音秘仏、聖徳太子作
開山成譽上人慶安年中参内の日。洛白川坊に於て感得。
踊躍地蔵 石佛。萬冶寛文の頃。此尊像時に山内に於て歓喜の袖を翻し誦躍し給ふと也。(東京名所図会より)
光岳寺の周辺図
参考資料
- 小石川區史
- 東京名所図会