宗関寺|八王子市元八王子町にある曹洞宗寺院

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朝遊山宗関寺|八王子市元八王子町にある曹洞宗寺院

宗関寺の概要

曹洞宗寺院の宗関寺は、朝遊山と号します。宗関寺は、延喜17年(917)に妙行(華厳菩薩)が創建、文明年間(1469-1487)に廃頽したのを北条氏照(霄院殿透岳宗關大居士)が永禄7年(1564)曹洞宗牛頭山寺として再興したといいます。豊臣秀吉の小田原攻めにより焼失したものを、随翁舜悦禅師が北条氏照の法号より宗関寺と改めて開山しました。年不詳ながら江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領、また元禄2年(1689)北条氏照百回忌に際して寄進された銅造梵鐘は、市有形文化財に指定されています。

宗関寺
宗関寺の概要
山号 朝遊山
院号 -
寺号 宗関寺
住所 八王子市元八王子町3-2562
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



宗関寺の縁起

宗関寺は、延喜17年(917)に妙行(華厳菩薩)が創建、文明年間(1469-1487)に廃頽したのを北条氏照(霄院殿透岳宗關大居士)が永禄7年(1564)曹洞宗牛頭山寺として再興したといいます。豊臣秀吉の小田原攻めにより焼失したものを、随翁舜悦禅師が北条氏照の法号より宗関寺と改めて開山しました。年不詳ながら江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領、また元禄2年(1689)北条氏照百回忌に際して寄進された銅造梵鐘は、市有形文化財に指定されています。

新編武蔵風土記稿による宗関寺の縁起

(元八王子村)宗關寺
小名中宿の西にあり、禅宗曹洞派、下恩方村心源院末なり、朝遊山と號す、寺領十石の御朱印を賜へり、開山随翁舞悦禅師、文禄元年北條陸奥守氏照が爲に建立す、昔は今の所より三町ばかり東にあり、その来由を尋ぬるに、昔この地に神護寺と云う古刹あり、これは華嚴菩薩の開闢にして、朱雀院の勅願所なりしとぞ、星霜を歴て衰廢せり、北條陸奥守氏照この地在城の頃、かかる古刹の墜廢せんことをなげき、再興して佛國禅師を開山とし、牛頭山寺と號せり、その頃氏照の執し申しけるによれるにや、正親町院より綸旨を賜りし由云傳ふ、かゝる繁榮もわづかのほどにして、天正十八年慈眼寺城沒落ののち、ふたゝび廢寺となりしにより、舜悦禅師かの跡へ別に一寺を建しと見ゆ、當寺に傳はれる記録あり、その比の事實をみるにたる、その文は下にのせたり、本尊釋迦木の坐像、安阿彌の作なり、本堂九間半に七間、宗關寺の三大字を扁す、唐僧心悦の篆書なり、向拝の扁額は同筆にて、朝遊山の三字を隷書す、抑朝遊山と號するは、もとこの地に朝遊軒とて氏照の庵室ありしによれり、寺號宗關は氏照の法謚にとれるなるべしとあり、
觀音堂。境内惣門道より左の方の山上にあり、九尺四方、正觀音木の立像にて、長七寸なるを安す、惠心僧都の作なりと云、北條氏照妻室の守本尊のよりいひつたふ、觀音堂の三大字を扁す、黄檗悦山が筆の行書なり、
寺寶
正觀音一軀。惠心僧都の作なり、北條氏照妻室の守本尊なりといひ傳ふ、
古記録。寛永年中悦随翁卜山のかき置しものなり、氏照時代のことを詳にしるせり、故にその文の略を左にのす、(文面省略)
法衣。金襴にて製せり、慈眼寺落城のとき、中山勘解由左衛門家範手負て来りしに、住僧ありつる法衣を、うちかけしと云、血少しくそみてあり、裏に天正改元癸酉八月廿八日、舜悦首座としるせり、
鐘樓。本堂の前にあり、二間四方、鐘の圓徑二尺五寸ばかり、中山備前守信治が寄進せしものなり、銘文左にのす、(銘文省略)
北条陸奥守氏照墓
寺野西南にあたれる山の尾崎にあり、高六尺許り、面の方に青霄院殿透岳宗關大居士、天正庚寅年七月十一日と彫り、裏に元禄二己巳天七月二日、北條陸奥守氏照公、現住信菴叟海音造とあり、これは百年追善のとき、いとなみしものとみゆ、氏照天正十八年に小田原城下田村安栖が宅にて、自害のとき、その屍はいづかたへ葬りしにや、由木永林寺の傳へによれば、骨はかの寺に葬りしとあり、いわんや百年に至り始て墓をいとなみしなれば、こゝへ歸葬せしともおもはれず、又同邊に中山道軒が墓石もたてり、
狩野一菴墓
これも同所にあり、五輪の塔高二尺五寸ばかり、文字なし、按豆州田方郡天野村狩野某が家の記録に云、上州の士小幡尾張守重定が三男を帶刀と稱す、これも上州沼田の産なり、重定武田信玄につかへしにより、帯刀も亦甲州につかへしが、勝頼滅亡の後、弟彦三郎と同く、北條氏照につかへり、天正十八年氏照、帶刀兄弟をして、上州宮崎の砦を守らしむ、時に藤田能登守信k地位が武将、夏目舎人介計を以陥れしかば、帶刀豆州へ遁れ、狩野川のほとり天野邑にかくて、薙髪して狩野一菴と號す、氏照よび出して、八王子の城を守らしむ、加賀利家城を攻ること急なるに及て、一菴中山勘解由とともに奮戦し、終に劔に伏て死す、その節義世の歎美する所なり、東照宮一菴の嫡子主膳、勘解由が嫡子助六に、各食邑を賜ふ、主膳は致仕して天野村にかくれ、元和九年閏八月十九日沒す、法名圓室光融と云云、古戰録にのする所はこれと異なり、狩野一菴は豆州の産にして、氏照の右筆なりしが、才覺ありて數度の走廻りに首尾を合せしにより、出身して一方の武士となりしが、今程は倅主膳の正に家督を譲り、其身は落髪して禅門となり候と、又同書に小幡上総介が事實をものせたれど、一庵と同族なることをいはず、狩野が家傳と異なり、誰か是なりや、(新編武蔵風土記稿より)

「八王子市史」による宗関寺の縁起

宗関寺(元八王子村―元八王子町三ノ二、五六二)
旧境内地は小字中宿の西方にあって江戸時代寺領一〇石の朱印を受け朝遊山と号した。寺伝によれば当寺は延喜一七年(九一七)妙行(華厳菩薩)の創立にはじまり、文明年間(一四六九~一四八七)堂宇が廃頽したのを北条氏照が八王子城を築くにあたり、永禄七年(一五六四)曹洞宗として再興された。ほどなく天正一八年(一五九〇)六月二三日の落城当時の兵火によって焼失、続いて延宝年間(一六七三~一六八〇)にも再度の焼失を受け、元禄二年(一六八九)氏照百回忌の追福にあたり、改めて新築されたが、明治二四年至り、堂宇が頽破したので、同二五年一二月現地に復興移築して現在に至ったのである。本堂間口六間奥行五間。庫裡間口三間奥行五間。鐘桜間口一間半奥行一間半。現地はまた横地堤といわれている。
当寺には華厳菩薩をはじめ、開山随翁舜悦に関する重要古文書を所蔵しているので有名であるが、特にその中「牛頭弘宗伝」をはじめおもなるものは曹洞宗全書に収められ、曹洞宗史上不朽の文献となっている。
同寺所蔵のおもなる古文書は
一、正親町天皇御綸旨(写) 永禄一二年(一五六九)六月二四日右大弁判
二、北条氏照公禁制文(写) 元亀二年(一五七一)六月一五日氏照判
三、華厳菩薩記 康暦元年(一三七九)三月一五日
四、自家訓訳書 天正一六年(一五八八)一〇月吉日
五、ひん炬法語 慶長一二年(一六〇七)舜悦真筆
六、遺誕 寛永二年(一六二五)舜悦真筆
七、牛頭弘宗伝 寛永三年(一六二六)
八、香語 舜悦真筆
九、教授戒文 舜悦真筆
一〇、手書 舜悦真筆
右の外「朝遊山」および「宗関寺」と題する二枚の、いずれも横五尺縦二尺六寸の木制扁額は、黒花塗地文字白漆で水戸徳川家々老中山備前守信治の寄進、筆者は徳川光国によって明から招かれた曹洞宗の東皐心越(水戸市祗園寺開山)の書である。
次に開山舜悦被着の金らん七条袈裟があり、長さ九尺一寸幅三尺一寸、赤地金らんで裏浅黄色羽二重、「金らん法衣一肩為表信附與舜悦首座 于時天正改元癸酉八月二八日」と記され、血に染ったところがあるので、古来舜悦が八王子落城の際、中山勘解由が手傷を負ってきたときに打掛けたものといわれている。また享保一一年(一七二六)七月水戸家老中山備前守信昌寄進柳慶筆の五幅対画軸がある。各絹地絹表装、縦八尺横二尺七分である。梵鐘は幸い由緒あるため戦時供出をまぬがれて現存し、縦四尺三寸、直径二尺五寸である。元禄二年(一六八九)氏照百回忌営弁の折、中山備前守信治の新鋳寄進にかかり、鐘銘並に叙は東皐心越の書である。
 また当寺境内地の西南に北条氏照の墓(氏照百回忌の元禄二年に造営されたもの)と狩野一庵の墓があり、側に華厳菩薩の五輪塔もある。なお境内丘上の観音堂は一間四方の小堂だが、本尊は木彫正観音立像で、北条氏照夫人所持の守本尊であったといい、恵心の作と伝えている。観音堂三字の扁額は黄檗悦山の書である。また八王子三十三番第一霊場の札所である。
一世開山随翁舜悦
二世碧山瑞泉 姓は源氏、大石遠江守定久の子である。母は帯刀先生藤常治の女、幼にして敏捷で弓馬に勝れていたが、平生父の定久が心源院の天叟順孝や傑山道逸などの傑僧と交遊しているのをみて、自分も禅に深い興味をひかれて自分で足を組んで坐禅をしたが、ある一日庭で矢を習っているときこつ然猛省するところがあり、突然弓矢をなげ出して「こんなことは世間の術のみ、何ぞ無上の法を求むるに如かんや」といって堅く出家の志を抱いたので、父定久もこれをゆるし、心源院の玉田存麟に依頼した。剃髪得度まさに二五才であった。玉田に侍すること一〇年、その後乾晨寺の自山や永林寺の一種に歴参し、舜悦が心源院の鑑院のとき所得を述べて許され、永禄七年(一五六四)牛頭山にはいり、華厳菩薩の遺跡を興して舜悦を開山とし、北条氏照が中山勘解由に命じて殿堂を修治せしめて、ここにはじめて宗関寺が創立されたのである。勅号定慧圓明禅師、天正一四年(一五八六)二月二一日寂す、寿六六。
三世舜宗堯静 野州の人、大川氏、舜悦を師とした。天正一八年(一五九〇)八月三日寂す。
四世豁州達翁 武州の人、片倉城主大炊允常貞安藤氏の子、幼くして舜悦に侍して一四歳祝髪、一八年間宗関寺に住したが、兵火で焼かれたのを再興し、ほぼ旧観に復した。寛永一五年(一六三八)一〇月五日寂す。その法嗣に有名な北巌寅嘯が出ている。
七世北巌寅嘯 俗姓原氏、甲斐の人、当寺所蔵の古文書の整理や編述に力を尽したと思われるが、後能登国雲光寺の開山となった。十七才にして碧山瑞泉について薙髪得度を受け、勝光院の天永や天応寺の慧照に参じ、ついに宗関寺第四世豁州達翁について印可を蒙った。総持寺に出世してから松門寺信松院・宗関寺に歴住し晩年は雲光寺を開いて逸老した。寛文一二年(一六七二)一二月一五日寂す。
八世舜山補沢(一六二九~一六九七) 寅嘯の法嗣である。俗姓安藤氏、武蔵舘(舘町)の人である。一六才寅嘯によって出家、出遊して起原寺の万安にあい、次いで常陸の天童山に登って庵居し、後帰って師の寅嘯を省して服勤数年、師のあと宗関寺にはいってその廃を興した。一住三〇余年、元禄一〇年(一六九七)三月一五日寂す、世寿六九であった。(「八王子市史」より)


宗関寺所蔵の文化財

  • 宗関寺銅造梵鐘

宗関寺銅造梵鐘

北条氏照の百回忌に際し、氏照の家臣中山家範の孫、中山信治等が八王子城の戦死者の追善供養のために鋳造寄進したものです。
鋳工は椎名伊予良寛と椎名兵庫重長で銘文は水戸光圀に寵遇された明の僧、心悦禅師によるものであり、歴史的資料としても貴重なものです。(八王子市教育委員会掲示より)

宗関寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「八王子市史」