妙覚寺|稲城市矢野口にある臨済宗建長寺派寺院

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雲騰山妙覚寺|多摩川三十三観音霊場、準西国稲毛三十三観世音霊場

妙覚寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の妙覚寺は、雲騰山と号します。妙覚寺は陽雲(永禄4年1561年寂)が開山、足利義晴候(1511-1550)が開基となり創建したといいます。多摩川三十三観音霊場22番、準西国稲毛三十三観世音霊場5番です。

妙覚寺
妙覚寺の概要
山号 雲騰山
院号 -
寺号 妙覚寺
本尊 釈迦牟尼仏像
宗派 臨済宗建長寺派
住所 稲城市矢野口2454
葬儀・墓地 -
備考 多摩川三十三観音霊場22番、準西国稲毛三十三観世音霊場5番



妙覚寺の縁起

妙覚寺は陽雲(永禄4年1561年寂)が開山、足利義晴候(1511-1550)が開基となり創建したといいます。

新編武蔵風土記稿による妙覚寺の縁起

(矢野口村)明覚寺
除地、七畝八分、雲登山と号す。小名谷戸にあり。臨済派、橘樹郡菅村寿福寺末、開山陽雲は永禄四年四月寂せり。本尊釈迦木の坐像長三寸ばかり。本堂五間に六間半巽向なり。
寺宝十一面観音像一体。長一尺余の坐像なり。腹中にこめたる像あり。これは長坂血鎗九郎が守護佛なりと云。長二寸五分ばかり伽羅を以て作りしものなりと云へり。血鎗九郎が納めし時代も、いかなる由緒ありて、寄附せしと云こと知らず。
鐘楼。本堂に向て右の山上にあり。(新編武蔵風土記稿より)

稲城市掲示による妙覚寺の縁起

妙覚寺
開山は室町時代の終わりで、足利義晴候の開山である。鎌倉の臨済宗大本山建長寺の末寺として建立されたが、寛政元年に焼失し、現在の建物は寛政8年(1796)に再建したものである。
観音堂石段の脇にある市指定文化財の筆塚は、学業指導の功績と徳を称えて、筆子代表49名によって、嘉永7年(1845)に建立されたものである。
鐘楼の横には、市内最大(高さ112㎝)で市指定文化財の板碑がある。この板碑は、室町時代の中頃、享徳3年(1454)秋の彼岸の中日に、道秀という人が逆修供養のために建てたもので、阿弥陀三尊の種子、円光、蓮台、銘文、紀年銘など、すべてがそろっている保存状態の良好な板碑である。(稲城市掲示より)


妙覚寺所蔵の文化財

  • 妙覚寺の筆塚(稲城市郷土資料)
  • 妙覚寺の板碑(稲城市指定文化財)

筆塚(稲城市郷土資料)

この筆塚は、永年にわたる学業指導の功績と徳をたたえて、筆子代表四ヵ村四十九名によって嘉永7年(1854)に建立されたものである。
石碑の表には指導者、角田すず女の「紫の雲の迎を待ばかりうき世の事はとにも角にも」という辞世の歌が刻まれている。また台石の表、左右側面には四ヵ村(矢野口村、長沼村、押立村、菅村)四十九名の筆子代表者の名前が刻まれ、指導者の功績の大きさと指導範囲の広さを示している。
稲城のみならず、周辺の地域にも関係した貴重な教育資料である。(稲城市教育委員会掲示より)

妙覚寺の板碑

板碑は青石塔婆ともよばれ、先祖の追善供養や自己の極楽往生を祈る逆修供養のために立てられた供養塔である。板碑の造立は鎌倉時代から室町時代にかけて全国的に行われたが、特に関東地方では秩父産の緑泥片岩を材料とした武蔵型板碑の造立が盛んであった。
この板碑は市内最大(高さ112㎝)のもので、室町時代中頃の享徳三年(1454)秋の彼岸の中日に道秀という人物が逆修供養のために立てたものである。円光で囲まれた梵字は阿弥陀三尊(阿弥陀・観音・勢至)をあらわし、下の方に左右二列ずつに書かれている梵字は光明真言である。全体的に見て文字や形態が整っており、保存状態も良好で、市内の板碑の代表的秀品である。(稲城市教育委員会掲示より)


妙覚寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿