高峯山天寧寺|勝沼城主三田氏宗開基、末寺を擁する中本寺
天寧寺の概要
曹洞宗寺院の天寧寺は、高峯山と号します。天寧寺は、平将門が創建した真言宗高峯寺があったと伝えらる当地に、勝沼城主三田氏宗が甲州中山の広厳院第二世一華文英(神嶽通龍禅師、永正6年1509年寂)を開山に招いて創建したといいます。天寧寺住職は、初世神嶽通龍禅師以来、累代高僧を輩出、近郷に三十七ヶ寺の末寺を擁し、慶安2年(1649)には寺領20石の御朱印状を拝領したといいます。
山号 | 高峯山 |
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院号 | - |
寺号 | 天寧寺 |
住所 | 青梅市根ヶ布1-454 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
天寧寺の縁起
天寧寺は、平将門が創建した真言宗高峯寺があったと伝えらる当地に、勝沼城主三田氏宗が甲州中山の広厳院第二世一華文英(神嶽通龍禅師、永正6年1509年寂)を開山に招いて創建したといいます。天寧寺住職は、初世神嶽通龍禅師以来、累代高僧を輩出、近郷に三十七ヶ寺の末寺を擁し、慶安2年(1649)には寺領20石の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による天寧寺の縁起
(根布村)天寧寺
高峯山と稱す、曹洞の禅宗、甲斐國中山廣嚴院の末、文亀年中此地の領主三田弾正平政宗起立と云、本尊釋迦木の坐像長三尺許、御朱印寺領二十石を附せらる、末寺凡三十七院をすぶ、開山を一華文英と云、僧千岳が【譜語集】にその傳を収む、今修してここにのす、禅師名は文英、字は一華、甲斐國山梨郡竹森郷の産なり、源姓武田の氏族、東光寺周檜の第二子なり、母金嶽の神龍懐に入ると夢みて妊めることあり、其うまるるに及て骨相凡庸ならず、左の脇の下に鱗文あり、父仕官の暇郷里に歸り、兒の聴敏を喜びこの兒出産の器なるべし、宜しく緇流の徒とすべしとて、すすめて鹽山にのぼせ、俊翁といへる大徳に参禅せしめ、年十三の時出家す、いまだ二十にみたずして全山こぞりて麟鳳と稱す、後甲斐國の永昌寺と當國の天寧寺とを開く、時に後柏原院永正三年、特に赦して紫衣幷て神嶽通龍禅師の號を賜ふ、同六年六月六日、化縁已に終るを知て偈を書し畢て化す、壽齢八十五歳、法臘七十一年、塔を本山の東岡にたつ、二世を松澗禅師と云、當國修廣寺及び郡中境村祥安寺の開祖なり、三世は靈蔭禅師、四世は説翁禅師、五世は廣菴長禅師なり、これらはみな當國に一寺を開き、その徳世に聞えありし僧なり、かく打つづきて高僧の住せしも、寺院の規模とすべきにや、この松澗禅師の修廣寺のこと、及び靈蔭禅師は聞修寺をひらき、説翁禅師は拝嶋の龍津寺を開きしなど、皆當國の寺院なるよし同書にのせたれど、これらの寺院今州中に聞ゆることなし、後廢寺となりしにや、郡中をしるさざれば尋るに由なし。
本堂。十一間半に八間半、南向。
開山堂。四間に三間半。
衆寮。七間半に三間半。
廻廊。十五間。
隠寮。四間半に二間、此外庫裏・倉庫等具備す。
山門。三間に四間、南向。
總門。西向。
鐘楼。九尺四方、銘文左の如し、(鐘銘省略)
道了権現社。小社門外の丘上にあり、境内の鎮守なり。
霞池。本堂の後背にあり、南北五十歩、東西二十歩餘の池、霞川の水源なり。(新編武蔵風土記稿より)
「青梅市史」による天寧寺の縁起
天寧寺 (高峯山梅華林)
根ヶ布(現・根ヶ布一丁目)にあり、本尊は釈迦如来である。もともとこの地には平将門創建の真言宗高峯寺があったと伝えられ、それに因む山号になっている。文亀年間(一五〇一〜三)杣保三田谷の領主で勝沼城主であった三田氏宗が甲州(山梨県)中山の広厳院第二世一華文英を開山として創建した。一華文英はいまの山梨県竹森の人で、母金岳が懐に神竜の入る夢を見て懐妊し、生まれた時、左の脇の下に竜の鱗文があったといい伝えられている。十三歳のとき、塩山の峻翁令山(八王子広園寺開山)に弟子入り、後に天寧寺の他にも甲州落合の永昌寺なども開いている。永正三年(一五〇六)、後柏原天皇から紫衣と神岳通竜禅師の号を賜わり、永正六年六月六日、八十五歳で示寂した。
大永元年(一五二一)、三田改定はこの寺に鋼鐘を寄進した。これは昭和二十四年、国の重要美術品に認定された。天正十八年(一五九〇)堂字焼失、数年後に再建された。このためか慶安二年になって徳川家から本寺格二十石の朱印状を付与されている。元禄十六年(一七〇三)再度火災にあい、宝永四年(一七〇七)本堂再建。その後、嘉永三年(一八五〇)までの間に、現在の七堂伽藍が整備された。その堂塔配置は曹洞禅の典型とされ、都の史跡に指定されている。宝暦九年(一七五九)括宗印祖建立の山門楼上には十六羅漢像ならびに釈迦如来座像(市有形文化財)が安置されているが、この釈迦像は以前、御岳山・世尊寺の本尊であったものである。唐破風造りの中雀門は嘉永六年(一八五三)二十九世心宗祖禅の建立。また将門の後胤と名乗る三田氏累代の位牌は最後の家臣とされる野口刑部が海禅寺、金剛寺、そして当山へと三基納めたうちの一基(市有形文化財)である。本堂・庫裡は昭和四十五年から三年の歳月をかけ解体複元工事が行われ、また昭和五十五年から五十七年にわたり山門・鐘楼・通用門も改修がほどこされた。法堂背後にある霞池は霞川の源流となっている。『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸時代末寺三十七を統ぶとあり、市内には二十二か寺(現在十四か寺)がある。市外では奥多摩町、日の出町、昭島市、飯能市と近郷に大多数分布している。
なおここには吉野織部之助、小林天淵、奥野大齢の墓所がある。(「青梅市史」より)
東京都教育委員会掲示による天寧寺の縁起
天寧寺は曹洞宗の名刹で、室町時代文亀年間(一五〇一〜〇四)に当地の領主三田弾正政定が再興したものです。
江戸時代には末寺三七を数える大寺院でしたが、たびたび火災にあい、堂宇のうち、本堂、禅堂、中雀門、通用門、書院などは江戸時代中期、また、総門、山門、鐘楼、庫裏などは江戸時代末期の建立です。
丘陵を背景にした七堂伽藍の配置は旧時の状態をよく保っており、都内の曹洞宗寺院として伽藍がよく残っています。
総門は四脚門の冠門。山門は三間一戸、二階二重門、入母屋造、杮葺型銅版葺。本堂・書院及び禅堂は単層寄棟造り、茅葺型銅版附。庫裏は単層、入母屋妻入造、茅葺型銅版葺です。茅葺であったものを昭和三五年(一九六〇)よりの解体修理により銅版葺変えたものです。(東京都教育委員会掲示より)
天寧寺所蔵の文化財
- 天寧寺境域(東京都指定史跡)
- 天寧寺鋼鐘(国重要美術品)
- 十六羅漢像(青梅市指定有形文化財)
- 釈迦如来座像(青梅市指定有形文化財)
- 三田氏累代の位牌(青梅市指定有形文化財)
天寧寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「青梅市史」