廣園寺|八王子市山田町にある臨済宗南禅寺派寺院

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兜率山廣園寺|大檀越鎌倉公方足利満兼、臨済宗僧堂

廣園寺の概要

臨済宗南禅寺派寺院の廣園寺は、兜率山傳法院と号します。廣園寺は、片倉城主大江備中守師親(法名廣園寺殿大海道廣大禅定門、応永9年没)が開基となり、峻翁令山禅師を請じて康応2年(1390)開山、鎌倉公方足利満兼が大檀越ともなり禅宗を鼓舞しましたが、豊臣秀吉の後北條氏攻めに際して兵火に遭い焼失、德川家康の関東入国に際して寺領15石の御朱印状を拝領し復興、江戸期には末寺50ヵ寺を擁する本寺格の寺院であったといいます。現在は臨済宗僧堂として、臨済宗僧侶の修行道場にあたっているといいます。

廣園寺
廣園寺の概要
山号 兜率山
院号 傳法院
寺号 廣園寺
住所 八王子市山田町1577
宗派 臨済宗南禅寺派
葬儀・墓地 -
備考 臨済宗僧堂



廣園寺の縁起

廣園寺は、片倉城主大江備中守師親(法名廣園寺殿大海道廣大禅定門、応永9年没)が開基となり、峻翁令山禅師を請じて康応2年(1390)開山、鎌倉公方足利満兼が大檀越ともなり禅宗を鼓舞しましたが、豊臣秀吉の後北條氏攻めに際して兵火に遭い焼失、德川家康の関東入国に際して寺領15石の御朱印状を拝領し復興、江戸期には末寺50ヵ寺を擁する本寺格の寺院であったといいます。現在は臨済宗僧堂として、臨済宗僧侶の修行道場にあたっているといいます。峻翁令山禅師は武蔵國秩父郡出身で寂後に勅号(天皇よりの法名命名)を賜り法光円明国師と呼ばれた高僧名僧で、深谷常興山国済寺、児玉郡威音山光厳寺、渋谷古碧山龍巌寺などを開山しています。

新編武蔵風土記稿による廣園寺の縁起

(山田村)廣園寺
境内、十四萬四千坪、村の中程にあり、兜率山傳法院と云、禅宗臨済派、京都南禅寺の末なり、康應元年八月十五日峻翁令山和尚の開山にて、中興開山は二十二世海照嶺和尚なり、開基は大江備中守師親(後元春)八幡の霊夢を蒙りて草創せり、この人は大江廣元七代の孫にて陸奥守親茂の子なり、貞治年中将軍義詮に属して軍忠あり、又父親茂をよび弟匡時直衡等宮方となりしときも、師親獨将軍家にしたがひて忠節ありしかば、其功によりてかの家安堵せしと云、本郡片倉の城主にして應永九年七月廿九日卒す、法名廣園寺殿大海道廣大禅定門と云、故にこの寺號を得たるか、又當寺の鐘銘に沙羅心廣とあるはこの人の事なるにや、猶片倉村の條に見えたり、當寺は鎌倉公方足利満兼大檀越となり、しかも、其頃三百町の地を寄附せられ、堂宇の結構も巧みなりしが、夫より遥の後天正十三年秀吉兵火をあげられしに、さしもの堂宇も烏有となり、続に開山堂と佛殿とのみをのこし漸く断絶に及びしが、同じき十九年東照宮関東御下向の折から當山の由緒を訴へしかば、十五石の御朱印を賜ひしより、今に至り末寺も五十ヵ寺あるよし、又この寺の記録に天正十三年に断絶せしが、慶長六年浅野紀伊幸長を以て、寺領十三石並に境内等を寄附され、天叙老柄に再興のことを命じたまひ、この天叙を住持となしたまひしなど云ことをも傳へたり、こは前と異同あれども、いづれがただしきことをしらず。
総門。南向、禅林法富の四字を掲ぐ、當寺三十九世山英和尚の筆なり。
超玄橋。総門の中にあり、五間許の板橋なり、橋名の義は詳にせず、山田川に架せり。
山門。本尊観世音及十六羅漢を安せり、上に正眼閣の額を掲ぐ、下には廣園禅寺の額を掲ぐ、何も當山開基大江師親の書なりといふ。
門。山門の並にあり、通用門なり、兜率山の額を掲ぐ、是も山英和尚の筆なり。
佛殿。五間四面、舗瓦にて甍なり、本尊弥勒、作しれず、勅願所の三字を掲ぐ、當寺の勅願所となりしは弘治年中のことにや、其文左の如し、
武州兜率山廣園禅寺
門中一同可被成勅願所之旨、依令
奏聞、自今以後者、準本寺、可為出世之地之趣、天気如斯、
弘治元乙卯十月廿六日
左大瓣晴政
相傳ふ厳有院殿御疱瘡の頃は、當山にても御祈祷などなしけると云、
方丈。十間半に六間半正観音を安す、如意の二字を扁す、開山峻翁令山和尚の筆なる由、維摩の木像をも置と云、
開山堂。六間に九間真霊塔とも號す、勅諡法光圓融禅師の数字を扁せり、峻翁令山和尚の像當寺の開山なり、木像を堂中に安せり、この人は武州秩父の産にして、畠山氏なり、法燈は紀伊国由良興国寺開山法燈国師より、甲斐国鹽山惠光大圓禅師に傳へ、夫よりこの令山和尚に傳へしよし、應永十五年三月六日に示寂せり、この人画賛あり、其文左の如し、
一有多種
我則是彌
二無両般
彌則是我
應永七年庚辰七月日
沙門峻令山自賛
焼香謹書
又この人禅師號を勅許ありし舊記を蔵せり、其文左のごとし、
勅、夫誅行立號赫赫百世之上者、帝王之常典也、在金僊氏亦然、若武州廣園開山峻翁和尚者、為法燈之末裔、承三光正傳、盛徳大業不亦光明也耶、然而法算不延而榮號未於旌、惜哉、諡曰法光圓融禅師、
應永廿六年四月八日
中高開山海照嶺へ、弘治年中勅諡を賜し綸旨も蔵せり、其文は左のごとし、
武州兜率山廣園禅師、當依住望號
雲峰瀧興禅師、著黄衣可令佛法建立之旨、天気如斯、
弘治元年乙卯十月廿六日
左大瓣晴政
大江師親像。是も堂中にあり、中は本郡片倉村に詳也。
鐘楼二ヵ所。一は開山堂の前にあり、寛永十九年鋳替の鐘也、銘文左に出す、一は方丈の前にあり、慶安二年の鋳造なり、銘文取べき者なければ略す、楼二間四方、鐘の径り三尺許り、二ヵ所とも相同じ。(銘文略)
薬師堂。境内にあり、三間に四間。
八幡宮。境内山門の脇にある小祠、大政八幡と號し、又後ろ向の八幡とも云、身體は梶原平三景時鶴岡八幡宮を當郡の元八王子に移せしが、當寺開山の頃この地へ勧請して鎮守とせり。
辨天祠。山門の脇にあり、小祠。
男井女井。開山堂の後にあり、男井を神靈水と云、當郡二ノ宮明神より開山へ寄附せられしよしを傳ふ、上池の類なるべし。
開山手玉石。二人持の石なり。
塔頭十ヵ寺
同證院
境内九百六十坪、境内にあり、應永八年九月草創本堂八間に五間半、本尊正観音を安す、開山は本山二世大源和尚正長元年十月十六日示寂す。秋葉祠、境内にあり。
西笑院
境内、三千坪餘、是も境内にあり、下同、本堂五間に六間、本尊釈迦如来を安す、應永十年二月草創す、開山道運東堂正長元年八月七日示寂すといへり。
向陽院。
境内、千七百六十坪、是も本山二世大源和尚應永九年十月の開山なり、開基は向陽院殿花渓芳公大禅定門應永十年三月廿二日の卒といへども姓氏を傳へず、本堂五間に八間、本尊釈迦如来を安せり。
法界庵
境内、三千三百三十九坪、應永六年四月雲渓玄岫東堂この寺を開山し、永享九年八月十八日の寂なり、本堂八間に五間、本尊釈迦を安し、法界庵の三字を掲ぐ、峻翁令山和尚の書なりと云。
雲津院。
境内、五千八十八坪、明徳二年五月物光秀寥東堂の草創にて、應永三年六月十一日の寂と云、開基雲津院殿月窓浄心大禅定尼は明徳四年十二月廿七日の卒にて、大江備中守の室なりと云、本堂五間に六間半、本尊釈迦を安せり、雲津院の卒は開山前なり、追て開基となせしにや。
蘭渓庵。
境内、百九十二坪、應永廿年二月開山則庵心東堂正長元年九月朔日の卒なり、本堂五間半に三間半、本尊観音を安す。
静牧軒。
境内、六百七十坪、應永十二年十月傳之東堂開山にて、この人は文安五年三月朔日の示寂なり、本堂六間半に五間、本尊釈迦如来を安す。
慶泉院
境内、九百十坪、正長元年三月慶泉院殿賀翁大禅定門と云人の開基にて、この人は永享二年八月八日の卒といへ共姓氏を詳にせず、本堂七間に五間、本尊弥陀弥勒菩薩を安せり、開山は法界庵とをなじ。
洞陽院。
境内、千九百六十坪、文明元年八月朔日耽源東堂の寒山にて同き八年三月三日の示寂なり、本堂四間半に三間半、本尊釈迦を置けり。
永明院
境内、凡二千坪餘、金峰山と云、明應元年四月創建の寺にて開山の名を傳へず、其もとは真言宗にて、新横山村に在しが後この所へ移り塔頭となりて、本山より貴雙玄榮を請して中興開山とせり、この人は相模國小田原の産にて川和氏なるよし、元亀三年六月寂すといふ、大檀那は田中和泉氏とて小田原の家人なりしが、子孫も今郡内柚木村に在りと云へども、北條家諸領役帳にも所見なければ其傳を詳にせず、當寺の開基なりしにや、本堂四間半に五間、本尊釈迦を安せり。
寶物掛物。画は大鷹なり、大久保石見守納めしといふ。
秋葉社、稲荷社、蔵王権現社。いづれも小社にて、境内鎮守。
大江氏居蹟。廣園寺の大門さきを云、このあたりに馬立場と云所あり、馬立の跡なるよし。
塚二。同じあたりにあり一はすくも塚といふ、元禄年中廣園寺焼失の時、灰を集めし故とせり、一は蟲塚と云、往古相模國中に蟲多く、出耕作の害をなせしゆへ廣園寺開山に願ひ、蟲を此所にあつめて塚とせしゆへ、この名ありと云は、由て来ることも舊きことなるべし。
雨乞井。廣園寺の西南客庵谷と云所の杉林の中にあり、彼寺の開山思ふところありて信濃國諏訪の池に二七日通夜し、身體を拝せしかば、其杉を刻み、旱魃の頃はこの井にて雨乞をなせる由今もしかなりと云。
鐘田。水田の名なりかね田と云、古鐵この所へ沈みしとぞ、其蹟ゆへこの名を得たりと。土人のはなしなりと。(新編武蔵風土記稿より)

東京都教育委員会掲示による廣園寺の縁起

広園寺建造物群として、総門・山門・仏殿・鐘楼(附銅鐘)の四棟が文化財に指定されています。総門は禅宗寺院では表門のことで、その構造は四脚門、切妻造、桧皮葺型銅板葺。両袖塀各一間がついています。文政一三年(1830)の再建で、細部の技法から、江戸時代後期の特徴をよく現しています。山門の構造は、三間二重門。入母屋造、上層桧皮葺型銅板葺、下層板葺型銅板葺で、細部の技法が仏殿と類似するので、両者は同時代の再建と考えられます。仏殿は桁行三間、梁間三間、単層、寄棟造で、文化八年(1811)の再建、平成一五年に全ての屋根を葺き替えています。
鐘楼は、桁行一間、梁間一間で、屋根一重、宝形造、桧皮葺型銅板葺で、天保一三年(1842)の再建です。附の銅鐘には応永四年(1397)及び応仁二年(1468)の旧銘及び慶安二年(1649)の改鋳銘があり、鐘銘の末尾に「武州滝原住加藤甚右金吾吉重」とあります。現在に残る建造物群は、寛政四年(1792)の放火による焼失後のもので、すべて江戸時代後期の再建です。(東京都教育委員会掲示より)


廣園寺所蔵の文化財

  • 広園寺境域

広園寺境域

広園寺は、康応二年(1390)大江備中守師親が、峻翁令山和尚を請じて開創したと伝えられますが、火災等により文献が焼失しているため明らかでありません。幾度かの火災や復興を経ましたが、天正一八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに際し兵火にかかり諸堂が焼失しました。
江戸時代初期には幕府の庇護のもと、京都南禅寺派の禅宗寺院として発展し、七堂伽藍が整備されます。今日多くの塔頭寺院等は失われているものの、広園寺の伽藍配置は踏襲されています。元禄一〇年(1687)及び寛政四年(1792)の火災で荒廃しましたが、文化から天保年間にかけて現在の堂宇のほとんどが再建されました。
丘陵を背にし南面し、総門・山門・仏殿が南北の一直線上にあり、中間東方に鐘楼があります。背後には石垣をもって一段高く本堂・庫裏・開山堂が東西に接続しています。江戸時代後期の建築物(総門・山門・仏殿・鐘楼が都有形文化財)を含む禅宗寺院様式の伽藍配置が良く残っています。(東京都教育委員会掲示より)


廣園寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「八王子市史」