拝島大日堂|天暦6年の多摩川洪水の際に中州に流れ着いた大日如来像
拝島大日堂の概要
天台宗寺院の拝島大日堂は、拝島山密厳浄土寺と号します。拝島大日堂は、天暦6年(952)の多摩川洪水の際に中州に流れ着いた大日如来の木像を、大神の浄土にあった浄土寺に安置、滝山城築城の折にその鬼門除けとして、当地に移したといいます。天正年間(1573-1591)には北条氏照の家臣石川土佐守の娘於ねいの眼病を祈願、井戸で眼を洗ったところ平癒したので、堂字を再建、8寺院を建立、天正19年(1591)には徳川家康より10石の御朱印状を拝領したといいます。本尊大日如来座像をはじめとする諸仏像をはじめとして、拝島のフジやおねいの井戸など多くの文化財を所蔵しています。
山号 | 拝島山 |
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院号 | - |
寺号 | 密厳浄土寺 |
本尊 | 大日如来像 |
宗派 | 天台宗 |
住所 | 昭島市拝島町1-10-14 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
拝島大日堂の縁起
拝島大日堂は、天暦6年(952)の多摩川洪水の際に中州に流れ着いた大日如来の木像を、大神の浄土にあった浄土寺に安置、滝山城築城の折にその鬼門除けとして、当地に移したといいます。天正年間(1573-1591)には北条氏照の家臣石川土佐守の娘於ねいの眼病を祈願、井戸で眼を洗ったところ平癒したので、堂字を再建、8寺院を建立、天正19年(1591)には徳川家康より10石の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による拝島大日堂の縁起
(拝島村)大日堂
宿の東端にあり、北の方へ入ること二十間許にして仁王門あり、夫より石階二十級を登りて南向八間四面の堂なり、向拝に大日堂の三大字を扁す、三井親和が篆書なり、堂内の宮殿二間に二間半、本尊大日、左右は彌陀・釋迦・共に木の坐像三軀を安す、大日は長一丈二尺、恵心の作なりと、この胎内は秘佛とする處の大日一軀を蔵せり、木の坐像長二寸八分にて、行基の作なるよし、左右の二像は共に長一丈許、その作知れず、天正中堂領十石の御朱印を賜はれり、その宛名浄土寺とあれど、今此寺號なし、殊に鐘銘にも拝嶋山浄土寺観音院と見えたれば、時の別當たることは論なし、ことさら往古は一山八坊ありしと云へば、此寺故ありて廢寺せしなるべし、今現在する處は、普明寺・本覺院・圓福寺・知満寺の四ヶ寺にて、この餘龍泉寺・蓮住院・密乗坊・明王院は廢寺にて、以上八ヶ寺なり。普明寺は今の別當たり、往古堂領十石坊中配當のしだい、別當二石外に學頭領一石にて、残り七坊は一石宛なりしと。今は廢寺を兼てその配當も少く異なり。
大日縁起を閲するに、拝嶋山大日堂は開基北條氏直の臣、石川土佐守なり、この人の娘七歳の時、眼病を患ひて醫療すれども効なし、因て此村なる辻堂の大日に祈誓して、扁眼をぞ助かりけるより、信心いよいよ厚く、今の堂を創建せりと云。此石川は拝嶋・久保・雨間・高月の五村を領せしよし、一門には三田弾正・羽村兵衛太夫・三澤兵庫介・乙畑孫三郎・有山内記などいへる者を始とし、大檀那十六人にて、後世修補の爲に、本尊の下の地を穿つこと一丈二尺、永楽銭千貫を収置と、棟札に載せてありと、されど棟札は屋棟に収め置よしなればみる事あたはず、かの石川が建立せし堂は、今の堂地より一段卑き所にて、東南の方に在しを、別當の僧榮海が時に、今の所へ引移して修理を加ふと云、按するに其年代は詳ならねども、顧ふに享保の比なるべし。
仁王門。南向二間半に四間、表の方左輔右弼長置八尺許、鎌倉佛師運慶の作なりと云、密嚴浄土寺の額字を扁す、筆者詳ならず。
薬師堂
除地、免田五段、大日堂に並びて東の方にあり、四間に三間南向なり、薬師は木の坐像にて長八寸五分、これを山王の本地佛とす。(新編武蔵風土記稿より)
「昭島市史」による拝島大日堂の縁起
大日堂(拝島町)
拝島山密厳浄土寺と号す大日堂は、『大日堂縁起』などによれば、天暦六(九五二)年の多摩川洪水の際に中州に流れ着いた大日如来の木像を大神の浄土にあった浄土寺に安置していたが、滝山城築城の折にその鬼門除けとして、この地に移したと伝えられている。
創建の時代は不明であるが、『新編武蔵風土記稿』・『大日堂縁起』によれば、天正一九(一五九一)年に徳川家康より一〇石の御朱印を賜ったとしているから、比較的早い時代から存在が認められていたようである。また、『大日堂縁起』は北条氏照の家臣石川土佐守の娘於ねいの眼病を祈願し平癒したので、天正年間(一五七三~一五九一)堂字を再建し、外に八箇の寺院を建立したと記している。
この大日八坊については『新編武蔵風土記』によれば、普明寺、本覚院、円福寺、智満寺、蓮住院、竜泉寺、明王院、密乗坊の八ケ寺で、普明寺が別当であり堂領一〇石は普明寺が三石、残りの七坊が一石宛と配当されていたと記している。現存しているのは普明寺、本覚院、円福寺の三寺のみで、その他は廃寺となっている。
大日堂に遺る棟札によれば享保一七(一七三二)年に大再興が行われ、堂の位置を現在の地に移したようである。
現在境内には薬師堂、地蔵堂、六地蔵堂、鐘楼、仁王門が遺されており、往時の隆盛をとゞめている。
大日堂の本尊は大日如来の座像で、両脇に阿弥陀如来、釈迦如来が安置されている。三体ともに都重宝「彫刻」に指定されている。また、仁王門に金剛力士立像があり、二体とも都重宝「彫刻」に指定されている。昭和五二年に修理が完了し、現在、仁王門に安置されている。(「昭島市史」より)
拝島大日堂所蔵の文化財
- 大日堂仁王門(昭島市指定有形文化財)
- おねいの井戸(昭島市旧跡)
- 拝島のフジ(東京都指定天然記念物)
- 大日堂境域及び日吉神社境域(東京都指定旧跡)
- 本尊大日如来座像、脇侍阿弥陀如来、脇侍釈迦如来(東京都指定有形文化財)
- 仁王門の金剛力士立像(東京都指定有形文化財)
大日堂仁王門
仁王門の創建年代は明らかではありませんが、門の掲額「密厳浄土寺」の書は由緒あるものである。これを蜀山人は、調布日記の中で「宮方の書にやいずれも高貴なる人の書なるべし」と記している。仁王門は間口九メートル、奥行六・三メートルあり、門内には都指定有形文化財の金剛力士像が安置されている。(昭島市教育委員会掲示より)
おねいの井戸
この井戸は拝島町にある有名な三つの井戸のひとつで、別名「お鉢の井戸」と呼ばれています。室町時代の末期(四百年余り前)滝山城主北条氏照の家臣であった石川土佐守が大日堂に娘「おねい」の眼病のなおることを祈り、さらにこの井戸の水で眼を洗ったところ、よくなったといい伝えられています。(昭島市教育委員会掲示より)
拝島のフジ
このフジは、推定樹齢約八〇〇年と言われ、都内有数のフジの巨木です。昭和三一年の指定当時には根元の周囲が二・九mあったといわれています。伝承によると、室町時代末頃、この地に建っていた明王院の境内に自生していたそうです。しかし、江戸時代初期にその明王院は廃寺となり、フジだけが残り今に至ったと伝えられています。俗に「千歳のフジ」とも呼ばれています。
フジは、春には紫色の蝶形の花をつけ、美しい様相を呈します。古来より自然暦として農作業や漁期の目安とされ、ホトトギスが来て鳴く木でもありました。また、日本では古くから観賞用に栽培されるものはフジ棚として整枝されていました。この「拝島のフジ」も開花と木には昭島市域をはじめ、近隣からの花見客で大変賑わいます。(東京都教育委員会掲示より)
大日堂境域及び日吉神社境域
大日堂の創建は、寺伝などによると天暦六年(九五二)と伝えられている。その後、戦国期、滝山城の築城に際し城の鬼門除けとして現在地に移され、天正年間(一五七三〜一五九一)には滝山城主北条氏照の重臣石川土佐守が娘の眼病を祈願し平癒により堂宇を再建。この時に「大日八坊」といわれた一山八ヶ寺が建立されたと言う。
天正一九年(一五九一)には徳川氏より朱印地一〇石を下賜され、享保一七年(一七三二)には大日堂の位置を石段上の現在地に移し建物を再興している。
一方、日吉神社の創建は不明であるが、天正年間の大日堂再興の折にその守護社として建立されたと言われ、寛保元年(一七四一)に「山王大権現」の称号を許されている。江戸時代は大日堂の管轄下にあったが、明治以後、神仏分離により独立し、社号も日吉神社と改めている。
当該地は古刹として著名な大日堂と天台宗の守護社である日吉神社によって形成された境域で、歴史的建造物を中心に旧態をよく留め、典型的な天台宗一規一画の寺域を構成する都内でも数少ない場所の一つである。(東京都教育委員会掲示より)
拝島大日堂の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「昭島市史」