長崎神社|旧十羅刹女神、長崎村鎮守、旧村社
長崎神社の概要
長崎神社は、豊島区長崎にある神社です。長崎神社の創建年代は不詳ですが、長崎村の鎮守として信仰を集め、江戸時代の中期には十羅刹女社と称せられていました。明治の神仏分離令により十羅刹女神に代わり須佐之男命を祭祀し、氷川神社、そして長崎神社と改称し、現在に至ります。
社号 | 長崎神社 |
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祭神 | 須佐之男命、櫛名田比売命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 豊島区長崎1-9-4 |
備考 | 長崎村鎮守、村社 |
長崎神社の由緒
長崎神社の創建年代は不詳ですが、長崎村の鎮守として信仰を集め、江戸時代の中期には十羅刹女社と称せられていました。明治の神仏分離令により十羅刹女神に代わり須佐之男命を祭祀し、氷川神社、そして長崎神社と改称し、現在に至ります。
豊島区教育委員会掲示による長崎神社の由緒
長崎神社の創建年代は不詳ですが、元来、櫛名田比売命を祀り、武州豊島郡長崎村(現在の豊島区長崎・南長崎・千早・要町・高松・千川と目白4・5丁目、西池袋4・5丁目、池袋3丁目の一部)の鎮守として信仰を集めました。江戸時代の中期には十羅刹女社とも称せられ、境内には享保18年(1733)に奉納された「十羅刹女」と刻まれた手水鉢が残されています。隣接する金剛院は、明治元年(1868)の神仏分離令まで、長崎神社の別当寺でした。 その後、明治5年(1872)には村社と定められ、同7年須佐之男命を合祀して長崎神社と改称し、今日に至っています。精緻な彫刻物を有する本殿は嘉永2年(1849)に、拝殿は明治32年に建立されたもので、旧社殿は絵馬を納める額堂として使われています。ほかに山岡鉄舟揮毫の神社額と祭礼幟などがあります。 なお、元禄年間(1688-1704)に始まると伝えられる獅子舞は、五穀豊穣と悪病退散を願って江戸時代から長崎村の人々により伝承されてきた区内唯一の民族芸能として、平成4年に豊島区民俗文化財に指定されました。毎年5月の第2日曜日の祭礼では、氏子会や獅子達を中心とする地元住民により獅子舞が盛大に奉納され、9月の例大祭とともに多くの人々で賑わいます。(豊島区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による長崎神社の由緒
(長崎村)
十羅刹女社
金剛院持下同じ(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による長崎神社の由緒
創建年代は詳らかではない。元来は櫛名田比売命を祀り、武州豊島郡長崎村の鎮守である。江戸時代中期には十羅刹女社ともいわれていたが、天明年間(一七八一-九)村内より金剛院が隣の地に移動してきてから、別当として当社をも管理した。明治となって神仏分離し、同七年須佐之男命を合祀して、長崎神社と改称して今日に至る。(東京都神社名鑑より)
豊島風土記による長崎神社の由緒
もとは十羅刹女(鬼子母神と共に法華経の受持者を護持するという十人の羅刹女)を祭神としていたという。今でも境内に「十羅刹社」の名の入った享保18年に奉納された水鉢や鬼子母神と同じ石榴の模様のついた石灯籠などが残されている。
明治になってから、神仏分離令によって、祭神の十羅刹女神に代わり、大宮の氷川神社の分霊を祭り、氷川神社と呼んだが、明治5年村社となり、更に同7年に長崎神社と改め、長崎村の総鎮守となった。祭神は須佐之男命と稲田媛命である。(豊島風土記より)
長崎神社所蔵の文化財
- 獅子舞(豊島区民俗文化財指定)
長崎神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 東京都神社名鑑