千早出世子育地蔵尊|豊島区千早にある真言宗豊山派寺院

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千早出世子育地蔵尊|旧地蔵堂

千早出世子育地蔵尊の概要

真言宗豊山派寺院の千早出世子育地蔵尊は、金剛院が管理している仏堂です。千早出世子育地蔵尊の創建年代等は不詳ながら、鎌倉幕府滅亡に際し北条高時と共に自害した長崎次郎高重が当地を領有していた頃に、当地で子供に教育を施していたお坊さんが地蔵尊を自刻、御堂を建立して地蔵堂と称したといいます。この地蔵堂に因み、当地周辺はかつて長崎村字地蔵堂と呼称されていたとされ、江戸期を通して地蔵堂は金剛院の管理となっていました。明治維新後、地蔵堂・地蔵尊は金剛院に移されていましたが、昭和50年に当地へ還座したそうです。

千早出世子育地蔵尊
千早出世子育地蔵尊の概要
山号 蓮華山
院号 金剛院
寺号 -
住所 豊島区千早1-23-3
宗派 真言宗豊山派
本尊 地蔵尊
葬儀・墓地 -
備考 -



千早出世子育地蔵尊の縁起

千早出世子育地蔵尊の創建年代等は不詳ながら、鎌倉幕府滅亡に際し北条高時と共に自害した長崎次郎高重が当地を領有していた頃に、当地で子供に教育を施していたお坊さんが地蔵尊を自刻、御堂を建立して地蔵堂と称したといいます。この地蔵堂に因み、当地周辺はかつて長崎村字地蔵堂と呼称されていたとされ、江戸期を通して地蔵堂は金剛院の管理となっていました。明治維新後、地蔵堂・地蔵尊は金剛院に移されていましたが、昭和50年に当地へ還座したそうです。

境内掲示による千早出世子育地蔵尊の縁起

出世子育地蔵菩薩御帰還記念と旧地名地蔵堂の由来
此の邊の土地は今を去る五百餘年前戦国末期の頃関八州を併合した時の執権北条氏の重臣長崎次郎高重の領地でした。その頃幾度かの戦禍で親を亡した孤児達の面倒を見ながら村の子供達を集めて読書と御佛の教えを説いて下された奇特なお坊さま(尼さんと云ふ説もある)がおられました。
そして其のお坊さまが自から御地蔵さんの御姿を刻んで朝な夕な読経の傍子供達のすこやかな育成を御祈願くだされ後古の祠を寺小屋を兼ねた御堂(昔の所在地は現千早町一の四四当地の辻角)に改築し地蔵坊又は地蔵堂と名付けられ古の地名の起りとなりました。
その頃(西暦一三五九年から一四八五年)の武人と仏門の方々の板碑が数多く現在も当地に保存されております。故に明治初期の頃まで此の地を武蔵国武州北豊島郡長崎村元長崎大字地蔵堂と称しました。
前述の通り昔から此の地には現存の御地蔵さまと右の地蔵坊にお祀りしてございました。地蔵菩薩と子育地蔵菩薩御一体の御佛像は現在まで椎名町駅前金剛院にお祀りしてございましたが此の度その御一体の子育地蔵菩薩の御佛像が百年ぶりに当地に御帰還なされその御堂に合祀申しあげることになりました。
此爰に謹んで御開帳申し上げ世の人々の平和と次の時代を背おう子供さん達の徳育に御佛の御慈悲を賜りますよう心から御祈願申しあげるものであります。(境内掲示より)

「北豊島郡誌」による千早出世子育地蔵尊の縁起

(長崎村)
該当記載なし(「北豊島郡誌」よりより)

「新編武蔵風土記稿」による千早出世子育地蔵尊の縁起

(長崎村)
地蔵堂
金剛院持(「新編武蔵風土記稿」よりより)


千早出世子育地蔵尊の周辺図