駒込妙義坂子育地蔵尊|豊島区駒込にある真言宗豊山派寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

駒込妙義坂子育地蔵尊|寛文8年に今井家が建立、三塚地蔵

駒込妙義坂子育地蔵尊の概要

真言宗豊山派寺院の駒込妙義坂子育地蔵尊は、上中里城官寺の境外仏堂です。駒込妙義坂子育地蔵尊は、室町時代より当地に土着した今井家が、今井家始祖の墳墓旧地とされる地に寛文8年(1668)子孫繁栄を祈願して建立、西側に(南北朝時代に活躍した)新田氏・及び今井家の戦死者を合祀した三塚(と称する小丘)があったことから、三塚地蔵と称されていたといいます。太平洋戦争以前には縁日(24日)には大変賑わったそうですが、空襲により焼失、戦後には当地に駒込診療所が開設され、その一角に祀られていましたが、平成18年に駒込駅前通り商店街振興組合創立五十周年および駒込二丁目親和会戦後六十周年の記念事業として地蔵堂が新たに建立され、現在は城官寺の境外仏堂となっています。また、地蔵堂内には昭和八年に交通事故で亡くなった少女を供養するために建てられた供養碑が共に祀られています。(新編武蔵風土記稿では「東福寺」項に記載の地蔵堂とあり、享保12年(1727)に入仏供養が行われたとしています)

駒込妙義坂子育地蔵尊
駒込妙義坂子育地蔵尊の概要
山号 平塚山
院号 -
寺号 城官寺
住所 豊島区駒込2-16-15
宗派 真言宗豊山派
本尊 地蔵尊
葬儀・墓地 -
備考 -



駒込妙義坂子育地蔵尊の縁起

駒込妙義坂子育地蔵尊は、室町時代より当地に土着した今井家が、今井家始祖の墳墓旧地とされる地に寛文8年(1668)子孫繁栄を祈願して建立、西側に(南北朝時代に活躍した)新田氏・及び今井家の戦死者を合祀した三塚(と称する小丘)があったことから、三塚地蔵と称されていたといいます。太平洋戦争以前には縁日(24日)には大変賑わったそうですが、空襲により焼失、戦後には当地に駒込診療所が開設され、その一角に祀られていましたが、平成18年に駒込駅前通り商店街振興組合創立五十周年および駒込二丁目親和会戦後六十周年の記念事業として地蔵堂が新たに建立され、現在は城官寺の境外仏堂となっています。また、地蔵堂内には昭和八年に交通事故で亡くなった少女を供養するために建てられた供養碑が共に祀られています。(新編武蔵風土記稿では「東福寺」項に記載の地蔵堂とあり、享保12年(1727)に入仏供養が行われたとしています)

境内掲示による駒込妙義坂子育地蔵尊の縁起

駒込妙義坂子育地蔵尊
この地蔵尊は、日光御成道(本郷通り)の妙義坂の途中に祀られています。地蔵尊の由来は古文書に次のように記されています。地蔵尊の由来は古文書に次のように記されています。
「寛文八戌年十月、旧邸ノ南丘陵ノ地ヘ間口二間、奥行三間ノ堂宇ヲ建設シ、地蔵尊像(石造丈二尺三寸)一体を造立、同堂ニ安置シ子孫繁栄ヲ誓願ス 爾来有志ノ老若男女、毎月此堂ニ集シ念仏供養ヲ営ム 此地ハ今井家始祖ノ墳墓ノ旧跡地ト云傳 又堂宇ノ西拾間余地小丘アリテ三ッ塚ト称スル塚アリ是ハ南北朝ノ官兵戦死者及ビ新田、今井ノ両家ノ諸士戦死ヲ合祀セシ地ト云傳」
これによれば、寛文八年(一六六八)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたことがわかります。
戦前は七十坪ほどの境内に多くの供養石像が並列し、節分には豆まきが盛大に行われ、二十四日の縁日には夜店が立ち並び、大変賑わいました。昭和二十年四月に大空襲でお堂が焼失し、戦後ここに駒込診療所が開設し、その一角に祀られました。現在は城官寺(北区上中里)の境外地蔵尊として祀られています。
地蔵堂内におかっぱ頭のセーラー服姿の童女が片手に宝珠を持ち、もう一人は錫杖を持って手をつないでいる供養碑があります。これは昭和八年にこの近くで交通事故にあって亡くなった十一歳の仲良しの少女を供養するために建てられたもので、以後子育地蔵尊とともに地域の安全を見守り続けています。
平成十八年四月、駒込駅前通り商店街振興組合創立五十周年および駒込二丁目親和会戦後六十周年の記念事業として、新地蔵堂の建立と境内改修が行われました。(豊島区教育委員会掲示より)

「北豊島郡誌」による駒込妙義坂子育地蔵尊の縁起

(巣鴨町)
地蔵堂
大字上駒込妙義坂に在り、三塚地蔵と稱す、新編武蔵風土記稿巣鴨の部に地蔵堂享保十二年七月八日、入佛供養あり立身木體の地蔵を安置す、堂内に十王阿彌陀の像を置とあるは則當地地蔵尊の事なり、毎月二十三日を縁日とす。(「北豊島郡誌」よりより)


駒込妙義坂子育地蔵尊の周辺図