城官寺|北区上中里にある真言宗豊山派寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

平塚山城官寺|山川城官貞久、豊島八十八ヶ所、上野王子駒込辺三十三ヶ所

城官寺の概要

真言宗豊山派寺院の平塚山城官寺は、平塚山と号します。江戸時代には平塚神社の別当寺でした。三代将軍徳川家光の病を治して信頼を得た山川城官貞久がこの寺に入り、平塚神社ともども再興したとされます。境内には徳川家の侍医・多紀桂山一族の墓があり、東京都指定史跡となっています。豊島八十八ヶ所霊場47番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場6番札所です。

城官寺
城官寺の概要
山号 平塚山
院号 -
寺号 城官寺
住所 北区上中里1-42-8
宗派 真言宗豊山派
本尊 阿弥陀如来像
葬儀・墓地 城官寺会館
備考 墓地募集中、豊島八十八ヶ所霊場47番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場6番札所



城官寺の縁起

城官寺の創建年代等は不詳ながら、筑紫安楽寺にあった阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗寺院で、安楽寺と号していたといいます。三代将軍徳川家光の病の平癒を祈願して信頼を得た山川城官貞久がこの寺に入り、平塚神社の別当を命じられたことから、真言宗に改め、また寺号も平塚山城官寺安楽院とするよう命じられたといいます。

新編武蔵風土記稿による城官寺の縁起

(上中里村平塚明神社別當)城官寺
新義真言宗、大塚護国寺末、平塚山安楽院と號す、本尊阿彌陀は赤栴檀にて坐身長一尺許、毘首羯摩の作と云、臺座は瑠璃にて造る、是昔筑紫安楽寺の本尊なりしか、彼寺の僧回國の時當寺に旅宿し故有て是を附属せしより安楽寺と稱す、其頃迄は浄土宗たりしか寛永十一年社領修理ありし時、金剛佛子を請して別當たらしめしより、今の宗門に改むと云、同十七年九月廿三日大猷院殿社領へ渡らせ給ひて、誰か斯まて造營せるやと御尋ありし頃、村長等山川城官なるもの公の御病悩の時、當社は己か鎮守なると以て御平癒あらんことを祈誓せしに、立所に験ありしゆへかくものせしと御請まふせしかば、御感ななめならず即城官を御前へ召、社領五十石を附らせ賜ひ、且忠賞として城官に知行二百石を賜ひ、寺號を改め平塚山城官寺安楽院と稱すへきの台命ありしよし、元禄五年現住眞惠か記せる縁起に載たり。この城官は當村の産なる由【江戸砂子】にいへり、今境内に城官か逆修の碑あり、銘に施主山川検校城官没後戒名玉法院殿心譽高岸春郭上坐、寛永十五年戊寅六月二十四日欽言と彫れり。
什物
假面一枚。義家手澤の物と云傳ふ其圖左に載す。
縁起三巻。巻末に元禄五午夏五月現住城官法印眞惠謹記とあり。
寺中光明院
十一面観音を本尊とす、こは義家の守護佛行基の作にて、豊嶋近義に與ふる所の像なりと云、立身長二尺。(新編武蔵風土記稿より)

北区文化財案内による城官寺の縁起

城官寺は真言宗豊山派に属し、本尊は阿弥陀如来像です。かつて平塚神社の別当寺でした。平塚神社入口にある石碑に、亀田鵬斎による城官寺の縁起が彫ってありました。それには、甲冑塚に不思議なことがあるなどしたため、その傍に庵を建て僧を置いてこれを守らせたことに始まると記されていました(碑文は明治初年削りとられています)。
元禄5年(1692)の縁起(同寺住職真恵によるもの)には、寛永17年(1640)、将軍家光が鷹狩りの途次、平塚神社を見て、誰がここまで造営したのかと尋ねたところ、将軍が病床にあったとき山川城官という者が平塚神社に平癒を祈願し、叶ったことを喜びここまでにしたと村長が答えたので、城官を召して、社領として50石、城官の知行地として200石を与え、寺号を改めて平塚山城官寺安楽院と称するよう命じたことが記されています(新編武蔵風土記稿)。
この寺院の墓地には、昭和11年3月、都の旧跡に指定された多紀桂山一族墓があります。多紀氏は丹波康頼の後裔で、家康に仕え、元孝の代に奥医師となりました。多紀氏を名乗ったのも元孝の代で、それまでは金保氏でした。その子元悳(藍渓)は、明和2年(1765)、神田に躋寿館という医学校を建て、医学教育を始めました。寛政2年(1790)、躋寿館は幕府立の医学館となり、元恵はその教授に任ぜられました。そのこ元簡(桂山)、元簡の子元胤らも奥医師として知られており、いずれもこの寺院に葬られました。
亀田鵬斎は江戸時代後期の儒者で、荻生徂徠の古文辞学を排撃し、朱子学を重んぜず、寛政異学の禁では異端の筆頭とされました。書をよくし、草書は近世を通じての名手といわれています。(北区文化財案内より)


城官寺所蔵の文化財

  • 多紀桂山一族の墓(東京都指定文化財)

多紀桂山一族墓

多紀藍渓は桂山の父で、名医丹波康頼の子孫である。安永年間(1772~81)侍医となり、法眼に叙し、やがて法印に進んだ。彼は製薬所を設置し、医官の子弟をことごとく就学せしめて教育に尽した。享和元年(1801)5月14日歿。年七十。
桂山は父藍渓のあとを襲い、幕府の医官となった。寛政2年(1790)侍医となり、法眼に叙し、医学教諭を兼ねたが、享和年間侍医を罷免された。
その後著作に専心し、多くの医学書を残し、文化7年(1810)12月2日、年五十六で歿した。
元安は桂山の子で文政10年(1827)6月2日40才で歿したが桂山の二男元堅は別家を本石町に立て、幕府の奥医となり、法院に進み、医学館の教授となった。安政4年(1857)9月14日に歿した。


城官寺の周辺図