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猫の足あと

正観寺。横浜市保土ケ谷区東川島町にある曹洞宗寺院

正観寺の概要

曹洞宗寺院の正観寺は、補陀山と号します。正観寺は、小田原北條氏の遺臣中田藤左衞門(寛永12年1636年寂)が、亡父加賀守菩提の為文禄3年(1594)に創建、雲松院十一世龍山遵朔大和尚を請じて開山したといいます。当寺の本尊聖観世音菩薩立像は、中田藤左衛門の父中田加賀守の守本尊で、旧小机領三十三所子歳観音霊場5番です。

正観寺
正観寺の概要
山号 補陀山
院号 -
寺号 正観寺
本尊 如意輪觀世音菩薩坐像
住所 横浜市保土ケ谷区東川島町45-4
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



正観寺の縁起

正観寺は、小田原北條氏の遺臣中田藤左衞門(寛永12年1636年寂)が、亡父加賀守菩提の為文禄3年(1594)に創建、雲松院十一世龍山遵朔大和尚を請じて開山したといいます。

新編武蔵風土記稿による正観寺の縁起

(川島村)正観寺
除地、六畝十八歩、村の東北の隅にあり、曹洞宗、これも雲松院末、補陀山と號す、本尊観音を客殿に安す、客殿は六間に四間東向なり、立像にして長二寸ばかり弘法大師の作なりと云、當寺はもとの名主中田藤左衛門と云もの、僧珠牛を開山として建立するところなり、珠牛は元禄元年九月十七日寂せり。
観音堂。客殿の右にたてり、三間半に三間の堂にて、本尊正観音は坐像にて長一尺、堂の側に建武元年の碑あり。
神明祠。堂の左にあり、この祠に一畝十六歩の除地を附せり。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿」による正観寺の縁起

正觀寺
位置
正觀寺は、補陀山と號し、保土ヶ谷區川島町百七十番地にある。境内は三百坪。小机雲松院の末寺で、寺格は四等法地八十級。小机觀音札所の第五番に居る。
沿革
小田原北條氏の遺臣中田藤左衞門が、亡父加賀守菩提の爲め、文祿三年四月、一小庵を建て、次いで隨流院第六世牧翁珠牛和尙を請じて開山とし、一寺となしたものである。併し當寺は無檀無祿に等しくて、一定の寺領とてもなかつたところから、其後は次第に廢頽を重ぬるばかりになつた。斯くて大正十二年九月一日の震災に倒潰したので、終に廢絕の運命も免かれ難きまでに至つたところ、當寺開基の遠孫中田復四郞が發起となり、大正十五年三月、堂宇の再建を遂げたので、神戸下町天德院現住大安俊明を迎へて住職とした。俊明和尙は、やがで寺格を平僧地より法地に進め、再び法燈を輝かしたので、和尙を法地開創の開山とした。
本尊
本尊は如意輪觀世音菩薩坐像、長一尺。佛體膝裏に次ぎの銘記がある。「旹享保壬寅歲六月十八日、手親彫刻成就畢。爲二悲母妙喜信女一。乃至法界平等利益。敬白。」(「横浜市史稿」より)

境内石碑による正観寺の縁起

当山は曹洞宗補陀山正観寺と称し福井の永平寺鶴見の総持寺を両本山とし小机の雲松院を本寺とする。後北条家家臣小机衆として勢力のあった矢上城、現在の日吉、城主中田加賀守の菩提の為その子中田藤左衛門が父の守本尊であった聖観世音菩薩立像、弘法大師作一寸八分純金製を奉納し、雲松院十一世龍山遵朔大和尚を請し開山とし創建した。後に旧小机領三十三観音霊場第五番の札所となる。この霊場は小机城主笠原越前守の奥方と息女の死亡が重なり更に鶴見川の氾濫等による被害の甚大さが加わった為小机の領地鶴見辺から町田にかけての地域の中から特に観音様に御縁の深い三十三所を指定して冥福と安全を祈願したのに始まる。享保十七年壬子の年(一七三二)浄土宗泉谷寺住職転譽上人が旧小机領三十三観音霊場の開設を徳川幕府に願い出て許可されたこゝに正式に霊場として発足した。その年が子の年であった為子の年毎に開帳をし今日に至っている。
藤左衛門は寛永十二年六月二十七日歿、戒名を空山永尊禅定門と云い正観寺開基として祀る。爾来法灯不断中田家の菩提寺となっていたが明治時代に無住となり廃寺同様のところ大正十年天徳院二十七世中島俊明が兼務住職となり法地開山す。昭和三年中田家十四代当主中田要作並びに総代中田復四郎が講中と相謀り仮本堂を建立善浪俊明を住職に向え中興す。無禄無檀家の当寺を復興することは困難を極めたが次第に檀信徒が集まり今日の正観寺の基礎を築いた。
開創三百八十年 中興七十年を記念して之を建立する。
平成二十年四月一日 補陀山正観寺三世寿耕鐡心(境内石碑より)


正観寺の周辺図


参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿」