神光山長遠寺。横浜市神奈川区片倉にある日蓮宗寺院
長遠寺の概要
日蓮宗寺院の長遠寺は、神光山と号します。長遠寺は、天正年中(1573-1591)に宝林院日住が字元宮に一草庵を建てて片倉山長遠寺と称し、杉山神社の別当寺を勤めたといいます。第三世本成院日祐の代に、当地の寄附を受け、堂宇を移転して再建、元禄3年には杉山神社も今の地に遷宮させ、神光山と改めたといいます。
山号 | 神光山 |
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院号 | - |
寺号 | 長遠寺 |
住所 | 横浜市神奈川区片倉5-5-26 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長遠寺の縁起
長遠寺は、天正年中(1573-1591)に宝林院日住が字元宮に一草庵を建てて片倉山長遠寺と称し、杉山神社の別当寺を勤めたといいます。第三世本成院日祐の代に、当地の寄附を受け、堂宇を移転して再建、元禄3年には杉山神社も今の地に遷宮させ、神光山と改めたといいます。
新編武蔵風土記稿による長遠寺の縁起
(片倉村)浄遠寺
社地の北に隣れり、日蓮宗なり、房州小湊誕生寺末、神光山と號す、本尊三寶を安ず、客殿六間に四間半、西向開山詳ならず、寺傳に云當寺は發心者の庵室なりしが、天正年鑄一宇の精舎となし、片倉山と號し江戸谷中感應寺の末となれり、二世佛種院寶林院日住住職して寛永二年八月十五日遷化す、此住僧を以今は開基と稱せり、寺地は字元宮と云所にありしが、年代知らず日祐といへる僧住職の時、此地に移し再建せり、後また元禄八年安藤對馬守検地の時社地を除けり、夫より年月は傳へざれども誕生寺末となれり。(新編武蔵風土記稿より)
神奈川区史による長遠寺の縁起
神光山長遠寺(日蓮宗) 片倉町四五七番地
沿革 寺伝によると、天正年中(一五七三~一五九一)に宝林院日住が字元宮に一草庵を建て片倉山長遠寺と称した。
明治維新まで隣地の杉山神社の別当寺であった。(神奈川区史より)
神奈川区史による長遠寺の縁起
長遠寺
位置
長遠寺は、神光山と號し、神奈川區片倉町四百五十七番地に在る。境内は一段四畝步。民有地。安房國小湊誕生寺末で、寺格は平僧十等である。
沿革
天正年中、寶林院日住の草創である。寺傅に據れば、天正の頃、寶林と稱する發心者が、字元宮の邊に一草庵を建て、片倉山長遠寺と稱して、江戸谷中感應寺の末に屬し、同村の鎭守杉山明神の別當となつた。寶林は卽ち當寺の開山日住上人である。然るに第二世佛種院日俒代に至り、遂に廢絕に歸し、其後二十有餘年を經て、元祿の初に至り、第三世本成院日祐の代に、當所の人三枝松吉左衞門なる者から、今の境地の寄附を受け、茲に堂宇を移轉、再建を遂げ、更に元祿三年、杉山社をも今の地に遷宮した。この時、寺號を神光山淨遠寺と改稱し、小湊誕生寺の直末となつた。第六世覺要院日信の代に至る問、客殿の造立がなかつたので、元文五年、同郡下星川村蓮華寺の廢絕した堂宇を買牧して、當寺本堂として建立した。然るに慶應の初に至り、年歷久しく荒廢したので、第二十八世戒亮院日住の代、古來の本堂を廢して、新に再建を企劃し、第三十世智政院日琉の代に至つて出來した。而して明治四年十月十四日、入佛式を施行した。則ち今の堂宇である。
本尊
本尊は一塔兩尊・四菩薩・四天王・不動・愛染・文珠・普賢・鬼子母神・十羅刹女・三十番神・日蓮大菩薩である。
堂宇
現今の堂宇は、本堂桁行四間、梁間四間半、向拜附、亞沿葺、慶應元年再建。及び庫裡桁行七間、梁間三間半、草葺。である。
境内佛堂
淨行堂。桁行六尺、梁間六尺、亞沿葺。大正六年、第三十八世日巧の代に建立したものである。(神奈川区史より)
長遠寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川区史」
- 「横浜市史稿」