光照山感應寺|森織部義安が開基
神田感應寺の概要
日蓮宗寺院の感應寺は、光照山と号します。感應寺は、森織部義安が開基、弘法寺十世日感上人が開山となり、慶長元年(1596)神田に創建、明暦の大火後、当地に移転しましたが、当地に同宗同名の寺院(感應寺:現天王寺)があったことから、神田感應寺と称されたといいます。
山号 | 光照山 |
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院号 | - |
寺号 | 感應寺 |
住所 | 台東区谷中6-2-4 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
神田感應寺の縁起
感應寺は、森織部義安が開基、弘法寺十世日感上人が開山となり、慶長元年(1596)神田に創建、明暦の大火後、当地に移転しましたが、当地に同宗同名の寺院(感應寺:現天王寺)があったことから、神田感應寺と称されたといいます。
「下谷區史」による神田感應寺の縁起
感應寺(谷中上三崎南町二番地)
眞間弘法寺末、本尊塔中題目釋迦多寶。光照山と號す。僧日感、慶長元年神田に地を賜ひ當寺を草創した。明暦三年の大火に類焼し、現地に移つたが、既に谷中には不受不施派の感應寺があつたので區別して、神田感應寺と呼ばれた。傳教大師作多田満仲守本尊と稱する毘沙門天像を安置す。元和九年森織部義安の納むるところである。昔は塔頭圓林坊があつた。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による神田感應寺の縁起
下総国弘法寺末 谷中不唱小名 光照山感應寺、境内古跡拝領地1140坪内門前町家36坪
起立は慶長元丙申年、神田二而地所拝領仕候処、明暦3丁酉年正月十八日大火之節類焼仕。此時谷中江引地二相成。然ル処同所二感應寺与申同寺号有之候故与。往昔拙寺ハ神田感應寺与呼来候。
開山本山十世日感、寛永6己巳年3月8日寂。
本堂。本尊宗法之通、三宝諸尊。
半鐘。
毘沙門堂間口2間奥行3間半。
毘沙門天木立像長1尺2寸伝教大師作。
右は多田満仲公守本尊。元和9突亥年11月、檀越森織部義安納之。
寺中
円妙坊 起立相知不申候。往古ハ御座候得共、当時は無御座候。
以上丙戊書上
森家の伝へに、其家の祖織部義安といひし人、神田にて地を賜ひ屋敷とす。此所に光照山感應寺を建立せり。其後、谷中に移さると。寺伝によれハ慶長元年、当山の開山日感上人、神田にて地所を下し賜ひ寺を建立し、その後明暦の大火後、此地に移されしと云。おもふに森氏の祖、開基にて日感を開山とし、かねて賜ふ所の地の内を請奉りてわかちあたへ、寺地とせしなるへし。されと其頃は、境内もことにせはかりしならん。当寺もあまた度回録の災にかゝれり。明暦の後、天和3年正月、宝永2年9月、明和9年2月、寛政12年正月なりと。世に此寺を神田感應寺といへるハ、もとより同名の寺あれハ、かくよひてわかてるなるへし。されと末にのする縁起にいふことく、元和の頃はやく駒込にうつらさるのことなること見るへし。
毘沙門天王(中略)
森氏ハ開基にはあらす。今、子孫本所弥勒寺の辺に住居あり。森吉之丞と称す。捜索(御府内寺社備考より)
神田感應寺の周辺図
参考資料
- 御府内寺社備考
- 「下谷區史」