福壽山光明寺。東国八十八ヶ所霊場
福壽山光明寺の概要
高野山真言宗寺院の光明寺は、福壽山慈眼院と号します。光明寺は、阿闍梨慶秀が永享2年(1430)に創建、明治期に衰廃した当寺を、大正年間に住職田中建雄が尽力、曹洞宗金剛山昌福寺と曹洞宗泉流山満蔵寺を合寺したといいます。東国八十八ヶ所霊場68番、金沢三十四所観音霊場25番です。
山号 | 福壽山 |
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院号 | 慈眼院 |
寺号 | 光明寺 |
住所 | 横浜市港南区日野7-19-19 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
福壽山光明寺の縁起
光明寺は、阿闍梨慶秀が永享2年(1430)に創建、明治期に衰廃した当寺を、大正年間に住職田中建雄が尽力、曹洞宗金剛山昌福寺と曹洞宗泉流山満蔵寺を合寺したといいます。
新編武蔵風土記稿による福壽山光明寺の縁起
(金井村)
光明寺
免除、三畝、吉原村の境にあり、古義真言宗、石川寶生寺の末、福壽山慈眼院と號す、本堂六間に五間半、本尊彌陀長二尺五寸の立像なり、寶徳二年の中興と而巳傳へ、其陀のことは更に傳へず。
寺寶
不動畫一軸。弘法大師の作。
地蔵畫一軸。古畫なり、筆者を傳へず。
正福寺
年貢地、是も吉原村境にあり、禅宗曹洞派、町谷村傳心寺の末、金剛山と號す、金澤札所の内二十五番なり。本堂六間に四間半、本尊正観音長二尺五寸餘、行基の作と相傳ふ、鎌倉由井長者染屋太郎時忠の守本尊にて、引手の観音と云、外に恵心の作なる薬師を安ず、立像長一尺五寸、開山連恕寂年を傳へず、中興開山生蓮社得譽唯村、元文四年四月十二日示寂、按に浄家の法謚に似たり、さあれこの僧は、分部若狭守の家老、分部圖書の子にして、後僧となり、當寺の第九世にて中興開山せる由、寺僧の傳へり、今も分部氏の藩に同姓見ゆ、それ等の内なるべし。
道了白山合社、堂の南方にあり、小社。
(吉原村)
満蔵寺
小名、寺尾にあり、禅宗曹洞派、相模國高坐郡大庭村宗賢院の末、泉流山と號す、古は宮下村得音寺を泉流山と號し、當寺を日野山と號せしが、當村旱魃の患多しとて、今の如く山號を互に替改めしより、村内旱損なき由、いかがはあらん、姑く傳る儘を記せり、本堂四間半に七間、西北向、本尊十一面観音長一尺五寸、春日の作なり、金澤札所三十三番の内第二十四番にあたれり、開山の年歴を傳へず、鎌倉治世の頃は二十一石の寄附地ありし由、或は百石程の地とも云へば、舊き蘭若なるべし、中興開山暁堂元龍、文禄元五月十二日示寂と云、かたかた舊き地なること知らる。
毘沙門堂。門を入て左にあり、堂は九尺四方、毘沙門は四尺五寸許の立像なり、行基の作と云、この像戦國の頃兵火に罹て紛失せしを、近き頃當時の門前なる畠中より掘得、新に堂を建て再び此に安す、彼像を掘出せし地を今毘沙門畠と呼り。(新編武蔵風土記稿より)
「港南の歴史」による福壽山光明寺の縁起
光明寺(福壽山慈眼院)
当寺は、永享二年(一四三〇)高野山の高僧、阿闇梨慶秀が、本尊阿弥陀如来を捧持して、この地に来たって、一宇を建立して、密教弘通の道場としたのが草創であると伝えられている。
『新編武蔵風土記稿』には、宝徳二年(一四五〇)中興と年代まで明らかにしているが、中興の僧名はない。また山号を、福寿山とも記載しているが、単なる誤記か詳かでない。
当寺は、往昔から檀家が少なく、ために徳恩寺その他近隣の寺院が兼務した時期が多かった。
天明年間(一七八一~八九)に本堂を、嘉永三年(一八五〇)に、庫裏を再建しているが、当時は、村の鎮守諏訪明神、山王社(両社共に今はない)の別当を兼ねて居た。
然し、その後、荒廃を来たし、明治の中頃からは、衰退は、その極に達した。
大正九年、田中建雄、が住持となって、入山すると、堂宇の修覆に力をそそぎ、寺運の隆昌に努力し、次第に寺観を整備すると共に地域の文化活動の指導的役割を担って、月刊俳誌『港南の花』を主宰、港南俳壇社をも経営した。松清庵槍浪の俳名をもった旧派の俳人である。
ととろが大正一二年九月一日、突如激震した関東大地震は、光明寺の堂宇、仏像などを一瞬にして、破壊する災害を与えて、切角寺運回復の希望を、はばむかと思われたが、一層の努力によって復興を念しとげた。
それに、村内にあった、曹洞宗金剛山昌福寺と、明治初年火災によって廃寺同様になっていた、曹洞宗泉流山満蔵寺を合併したので、寺運も開けるに至った。
ちなみに、昌福寺は金沢観音霊場第三十四番札所の二十五番であり、満蔵寺は二十四番であった。
当寺は、新四国東国八十八所霊場の第六十八番である。(「港南の歴史」より)
「横浜市史稿 佛寺編」による福壽山光明寺の縁起
光明寺
位置
光明寺は福聚山慈眼院と號し、中區日野町九百九十四番地に在る。境内は二百六十五坪。高野山金剛峯寺の直末、寺格は十八等格院である。
沿革
永享二年の開創で、開山を慶秀と云ふ。卽ち當寺明細書に永享二年、高野山の碩德、阿闍梨慶秀が、本尊を棒持して、此地に來り、一宇を建立して、密法弘通の道場としたとあり、新編武藏風土記稿には、寶德二年中興とある。古來、少檀少祿で住僧は無く、常に同村の德恩寺其他で兼務したと云ふ。天明年間、本堂を再建し、嘉永三年、庫裡を再建した。當時は鎭守、諏訪明神竝に山王社の別當を兼ねて居た。然るに、その後、荒廢を來たし、明治の中葉には衰替殆ど其極に達した。大正九年、田中健雄が住持するに及んで、堂宇を修復し、寺門の興隆に努め、漸く一寺の體裁をなすに至つた。大正十二年九月一日の大震災に、堂宇・佛像等大破の難を破つたが、更に復興を遂げた。當寺は古來、寶生寺に隸し、その後、增德院に屬し、大正十二年、改めて高野山金剛峯寺の直末となつた。近年村内の曹洞宗正福寺、及び萬藏寺を合併したので、寺運も次第に開くることゝなつた。
本尊
本尊は阿彌陀如來の立像、長二尺、作は不詳。
堂宇
今の堂宇は、本堂 桁行七間、梁間五間三尺、四注造、草葺。・庫裡 桁行三間半、梁間六間、草葺。・玄關 桁行二間、梁間一間半、亞鉛葺。等である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
福壽山光明寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「港南の歴史」
- 「横浜市史稿 佛寺編」