正覚院|平安時代中頃創建の伝承、荒綾八十八ヶ所、新四国四箇領八十八ヵ所
正覚院の概要
真言宗豊山派寺院の正覚院は、鷲王山宝蔵寺と号します。正覚院の創建年代は不詳ですが、平安時代中頃の創建と伝えられ、江戸時代には大鷲神社の別当寺であったといいます。荒綾八十八ヶ所霊場50番、西新井組中川通四箇領八十八箇所82番札所です。
山号 | 鷲王山 |
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院号 | 正覚院 |
寺号 | 宝蔵寺 |
住所 | 足立区花畑3-24-27 |
本尊 | 不動明王、釈迦如来 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 荒綾八十八ヶ所霊場50番札所 |
正覚院の縁起
正覚院の創建年代は不詳ですが、平安時代中頃の創建と伝えられ、江戸時代には大鷲神社の別当寺であったといいます。
新編武蔵風土記稿による正覚院の縁起
(花又村鷲明神社)別當正覺院。新義真言宗、西新井村惣持寺の末、鷲尾山寶蔵寺と號す、本尊不動を安ず。
王子権現社、境内の鎮守なり。(新編武蔵風土記稿より)
「ブックレット足立風土記花畑地区」による正覚院の縁起
正覚院(花畑3丁目24)
真言宗豊山派のお寺で、鷲王山正覚院寳蔵寺と号し、本尊は不動明王像です。開山は不詳ですが、源義光伝説との関係で平安時代半ばといわれています。墓所には1622(元和8)年の五輪塔(区有形文化財)や区内最古の1623(元和9)の阿弥陀三尊来迎像庚申塔(区有形民俗文化財)など古い石塔が多く見られます。この他、お乳のほしい人が願うとお乳が出るようになるという「乳たれいちょう」があります。
釈迦堂
山号からもうかがえるように、当寺は大鷲神社の別当でした。境内にある釈迦堂には、明治維新まで大鷲神社の本地仏であった鷲に乗った釈迦如来像が安置されています。この像は、1087(寛治元)年に後三年の役に参戦し、活躍した源義光の守り本尊と伝えられます(本巻「新羅三郎源義光伝説」参照)。(「ブックレット足立風土記花畑地区より)
足立区仏教会資料による正覚院の縁起
正覚院の創建は不詳なれど、平安朝中葉にはすでに存せしこと明らかなり。すなわち「新編武蔵風土記稿」および「鷲大明神略縁起」などによれば、釈迦堂安置の釈迦佛は乗鷲1寸8分の尊像にして、明治維新のさいまで当町大鷲神社の本鉢として森羅三郎義光の本尊なりき。すなわち後冷泉天皇の御代、奥州安部征伐のおり、援軍の将として義光公この地に至りて、尊像に戦勝を祈願せるに、その霊験明らかなり。よって凱旋の帰途この地に納め給えり、のちの土地の人びと神殿を造り、これが別当を正覚院において掌れりと、応徳2年(1085)に鷲大明神別当正覚院法師先海が記せると見れば、すでに同代に存せしこと明らかなり。(足立区仏教会資料より)
足立風土記資料寺院明細による正覚院の縁起
中本寺西新井大師総持寺末 東京府管轄武州足立郡花又村 鷲王山正覚院
創立年月并開山不詳、香衣一色着用寺格
第17世宥真、38歳。埼玉県管轄武蔵国葛飾郡彦成村安昼浅右衛門六男、弘化4年8月15日同国足立郡花又村於正覚院得度、慶応4年11月23日当寺へ転住、本山小池坊留学15ヶ年。以上僧一人。
境内 3反1畝6歩、但除地
檀家 104軒
門末并庵室無之(足立風土記資料寺院明細より)
正覚院所蔵の文化財
- 元和9年銘庚申塔(足立区指定有形民俗文化財)
- 元和8年銘五輪塔(足立区登録有形文化財)
- 元禄10年銘庚申塔(足立区登録有形民俗文化財)
正覚院は、真言宗豊山派で山号を鷲王山、寺号を宝蔵寺という。平安時代中頃の創建と伝えられ、江戸時代は大鷲神社の別当寺であった。
当寺には、区内では希少な江戸時代初期の石造物が3基、この場所に安置されている。中央の庚申塔(元和9年銘)は、1623年造立で、東京都区部最古のものである。石材を板碑型に加工し、阿弥陀三尊が極楽浄土から来迎するようすを図像で表現している。その下に「武刕 花又村(現在の花畑周辺地域)」の造立者名を刻み込んでいる。江戸時代の初め、庚申信仰にともなう庚申塔造立の習俗が足立区周辺から始まったことを示す資料として大変重要である。
右の庚申塔(元禄10年銘)は、1697年に建てられたものである。舟型後背の石材に阿弥陀如来立像を主尊として彫刻し、「二世(現世と来世)安楽」を祈っている。
左の石塔は五輪塔で、最下部の地輪に「元和8年(1622)10月12日」という紀年銘がある。「妙性禅尼」の追善のために造立したことが銘文に刻まれている。
各石造物はその貴重性から、庚申塔(元和9年銘)は足立区指定有形民俗文化財、五輪塔は区登録有形文化財(建造物)、庚申塔(元禄10年銘)は区登録有形民俗文化財に認定されている。 平成21年3月 足立区教育委員会
正覚院の周辺図