西新井大師総持寺|足立区西新井にある真言宗豊山派寺院

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五智山総持寺|西新井大師、関東三大師、関東八十八ヶ所、関東三十六不動

西新井大師総持寺の概要

真言宗豊山派の総持寺は、五智山遍照院と号し、西新井大師として著名です。西新井大師総持寺は、826年弘法大師が創建したと伝えられ、本堂の西側に加持水の井戸があったことから当地周辺が西新井と呼ばれるようになったといいます。慶安元年(1648)寺領25石の御朱印状を拝領、近郷に数多くの末寺・門徒寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。川崎大師平間寺、観福寺大師堂(前橋厄除大師)と共に関東三大師の一つ、関東八十八ヶ所霊場特別、関東三十六不動の26番不動、荒川辺八十八ヶ所霊場37番、38番、荒綾八十八ヶ所霊場1番、西新井組中川通四箇領八十八箇所1番、武蔵国八十八ヶ所霊場1番札所、東国花の寺百ヶ寺です。

西新井大師総持寺
西新井大師総持寺の概要
山号 五智山
院号 遍照院
寺号 西新井大師総持寺
住所 足立区西新井1-15-1
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 関東三大師



西新井大師総持寺の縁起

西新井大師総持寺は、826年弘法大師が創建したと伝えられ、本堂の西側に加持水の井戸があったことから当地周辺が西新井と呼ばれるようになったといいます。慶安元年(1648)寺領25石の御朱印状を拝領、近郷に数多くの末寺・門徒寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。

新編武蔵風土記稿による西新井大師総持寺の縁起

(西新井村)總持寺
新義真言宗、山城國醍醐報恩院末、寺領二十五石慶安元年九月十七日御朱印を賜へり、五智山遍照院と號す、當寺は弘法大師の草創にして、大師自作の像を本尊とす、これを厄除大師と稱し、世の人の信仰する者多し、殊に毎年二月二十九日参詣の者群集すと云、されど此寺もと千住五丁目の裏にありしが、後今の地に移せりと云傳ふれば、大師草創せしは此地にはあらず、有徳院殿此邊御遊獵の時、元文二年正月十一日當寺へ成らせられしより、當御代に至りても此邊御放鷹の時は御膳所ともなれりと云。
仁王門。樓上に五智如来を安ず。
護摩堂、攝待所、奉納所、御朱印蔵、鐘樓。元禄十四年千住町淺香彦右衛門・同太郎兵衛と云者の寄進せし鐘をかく。
加持水ノ井。弘法大師の加持水に用ひし井なれば、この名ありと云。
蓮池。凡三十坪ばかりの池なり、貞享元年慈海と云僧の誌せし縁起に、昔堂宇焼失の時、本尊祝融をさけて此池上に出現せし故、今は大師御手洗ノ池と唱ふる由載たるは、此池のことなるにや。
東照宮御宮。天神。善女龍王・稲荷の三坐を合祀せり。
御嶽社。この社の邊に影向の松と呼べる松木あり。(新編武蔵風土記稿より)

「足立区史」による西新井大師総持寺の縁起

西新井の起り
一千余年前嵯峨天皇の頃東国に悪疫が流行して人々難儀を極めていた。丁度全国行脚中の大師が、天長三年たまたまこの地に到来し、連日の旅の疲れで松の根本に腰を下して休んでいる時、突然十一面観音が現れ、大師の危難と諸民の病災を告げたので、大師は合掌礼拝して我にかえると、直ちに観音の示現に従い、沐浴斎戒して、十一面観音像を刻み、またその余り木で自像を刻んだ。数日間尽夜の別なく護摩祈祷した後、自他の災厄一切を自像に負わせて井中に沈めた(一説には土中に埋めたという)ところ、大師の危難は勿論悪病一切この地を去ったので、村民は喜び、後この大師の像を引上げて現在の御影堂に安置した。先に大師は十一面観音を本尊として一宇を建立した。これが厄除大師五智山遍照院総持寺であるが、この堂の西に大師の像を沈めた井戸があったので、西新井という地名がついたという。また一説には土中に埋められた大師像を掘出した跡から清水が湧き出て現在の井戸となったといい、これが今の加持水井である。何れにしても本堂の西側にその井戸があったので西新井の地名が起きたのだという。(「足立区史」)

西新井大師総持寺のもと末寺


西新井大師総持寺所蔵の文化財

  • 絹本着色弘法大師像(日本国重要文化財)
  • 絹本着色天台大師像日本国重要文化財)
  • 絹本着色尊勝曼荼羅図日本国重要文化財)
  • 菊蒔絵手箱日本国重要文化財)
  • 康保元年十一月勧学会記日本国重要文化財)

西新井大師総持寺で行われる行事等

  • 西新井大師のだるま市とだるま供養(2月3日)
  • ぼたん園での花まつり(4月21日-5月中旬)

西新井大師総持寺の周辺図