寿福山長勝寺|宮城清左衛門吉重開基
長勝寺の概要
日蓮宗寺院の長勝寺は、寿福山と号します。長勝寺は、宮城清左衛門吉重(華院長勝日法)が開基となり、旧主家千葉次郎勝胤公の菩提を弔うため、中山法華経寺智性院日座上人(寛文9年寂)を開山に迎えて万治2年(1659)創建したといいます。
山号 | 寿福山 |
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院号 | - |
寺号 | 長勝寺 |
住所 | 足立区伊興3-11-19 |
宗派 | 日蓮宗 |
本尊 | 大曼荼羅 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長勝寺の縁起
長勝寺は、宮城清左衛門吉重(華院長勝日法)が開基となり、旧主家千葉次郎勝胤公の菩提を弔うため、中山法華経寺智性院日座上人(寛文9年寂)を開山に迎えて万治2年(1659)創建したといいます。
「ブックレット足立風土記伊興地区」による長勝寺の縁起
長勝寺(伊興三丁目)
日蓮宗。山号は寿福山長勝寺。本尊は大曼荼羅。「新編武蔵風土記」によると、開基は、伊興村の名主林蔵の先祖宮城清左衛門吉重といいます。また当寺の周辺には、当寺が祭祀にかかわる千葉次郎勝胤の墓、六万部経塚があります。(「ブックレット足立風土記伊興地区より)
新編武蔵風土記稿による長勝寺の縁起
長勝寺
本寺前(中山村法華経寺)に同じ、壽福山と稱す、本尊三寳を安す、開山智勝院日座寛文九年六月廿二日寂せり、開基は名主林蔵が先祖宮城清左衛門吉重なり、元和八年當寺を起立し、自から逆修して法名蓮華院長勝日法といふ、則寺號とす、吉重は寛永十四年正月十三日病歿せり、宮城の由緒詳ならず、私録の過去帳に宮城加賀守藤原吉次、法名日妙とあり、又領家村實相寺の過去帳にもかく記したれど、卒の年代を記さず、又「宮城系図」には此人を載ざれど、清左衛門の先祖にして、千葉氏の家人なりし由しは家に云傳へり。(新編武蔵風土記稿より)
足立区仏教会資料による長勝寺の縁起
当山縁起は万治2年(1659)、当寺開基檀越である宮城清左衛門が先祖の主家であり、里見と北条の争いに、里見に味方して落命したといわれる千葉次郎勝胤公の菩提を弔うために、千葉氏に願い、領地の一部の割譲を受けて、中山法華経寺の智性院日座上人を開山に迎えたことに始まる。
当寺北西の方角には、この勝胤公の首塚とされる墓があり、当寺の供養するところとなっている。村の古老の話によると、ここにお参りすると虫歯の痛みなどがなくなるといわれ、子供の病の神様として信仰を集めていたようである。
足立風土記資料寺院明細による長勝寺の縁起
本山下総国中山村法華経寺末 東京府管轄武蔵国足立郡伊興村 寿福山長勝寺
創立元和8年2月、武蔵国足立郡谷在家村本応寺第10世日福弟子日座開基
第33世義祐28歳。神奈川県管轄相模国鎌倉郡田ヶ谷村農島村儀左衛門三男、安政6年3月13日同三浦郡久野谷村於法性寺ニ得度、明治4年12月19日入寺、以上僧一人。
境内、上下畑1反12歩、御年貢地。屋敷、4畝9歩、御年貢地。屋敷3畝12歩御年貢御免地。
檀家13軒。
千葉勝胤について
千葉勝胤墓
村の中央小名横沼の内、長勝寺の免田の傍にあり、長五尺許り、碑面に千葉次郎勝胤公墓と記し、下の方に宮城三右衛門・市原四郎兵衛・常田次左衛門等四人の姓名を彫たり、されど卒年を載せず、此四人の内三右衛門と次左衛門とが子孫は、今の村民林蔵次左衛門にて、其餘の子孫は廃家となれりと云、此所にて勝胤の墓あるゆへを問へど、土人も来由を知らず、思ふに既に「小田原役帳」にも千葉の所領の由載たれば、其領地なる故當と頃へ葬しなるべし、又下の方に彫せる四人の者、昔かれ家人なる故に、追福の為に建しならん、林蔵が家に古き私録の過去帳あり、其内に千葉次郎勝胤公永禄七甲子正月八月と載たり、又本郡佐野新田名主勘蔵は、勝胤の子新蔵胤信が子孫なり、彼家傳によれば、勝胤は里見義弘と北條氏康鴻ノ臺合戦の時、永禄七年正月八日打死せしと云、按に小田原記及び其時の戦を記せしものに、勝胤が打れしことは見えず、且つ千葉系図を記せしものに、此人は千葉介孝胤の子にして、天文二年五月廿二日卒すとあり、又或人の所蔵せし家譜によれば、當家廿二代千葉介孝胤の嫡男にて、始め太郎或は鶴壽丸と號し、後千葉介と改、文明二年に生まれ、享禄五年五月廿一日卒す、法諡を常蔵院其阿弥陀佛、行歳六十三と載たり、尤享禄五年は則天文改元の年なり、これによればとかく天文の初に卒せし人ならん、永禄七年の傳は恐くは非ならん。(新編武蔵風土記稿より)
長勝寺の周辺図