善応寺|足立区中川にある浄土宗寺院

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宝積山善応寺|浅草橋場の正憶院と移転合併

善応寺の概要

浄土宗寺院の善応寺(ぜんのうじ)は、宝積山正憶院と号し、葛飾区新宿の西念寺末寺として1583年に創建しました。1929年に浅草橋場の正憶院と移転合併し、現知恩院末です。正憶院では、江戸時代中期に、一老人が孫のおできの治療を地蔵に礼顧し、そのお礼に草餅を供えたとの言い伝えがあり、地蔵を草餅如来、本寺をくさもち寺と呼ぶようになったとの言い伝えを持ちます。

善応寺
善応寺の概要
山号 宝積山
院号 正憶院
寺号 善応寺
住所 足立区中川3-3-5
本尊 阿弥陀如来
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



善応寺の縁起

足立風土記資料寺院明細による善応寺の縁起

西念寺末 東京府武蔵国足立郡大谷田邨 宝積山 善応寺
天正11年善応開山、創立緒由不詳、明治壬申期限301年。
第28世住職善長、壬申42歳。新潟県管轄越後国蒲原郡新潟本町上一ノ町医師藤野祐民長男。文久元年11月8日柏崎県管轄同国魚沼郡古千谷邨照専寺ニ得度、元治元年12月入寺、文久3年10月東京芝増上寺ニ学修。
境内除地4畝2分、外年貢地田畑3町3反6畝20分(足立風土記資料寺院明細明治5年項より)

足立区教育委員会掲示による善応寺の縁起

善応寺は、天正11年(1583)に創建されたという。現在の寺は、昭和4年浅草橋場の正憶院が移転合併してできたものである。
堂内には、江戸時代の造像とみられる本尊阿弥陀三尊、阿弥陀如来立像、地蔵菩薩像が安置され、元和2年(1616)にはじまる正憶院の霊簿、善応寺田畑什物等、多数の古文書が残されている。
霊簿は、新吉原遊郭の開設者、庄司甚右衛門をはじめ楼主、遊女、禿の戒名を記し、境内の遊女の墓碑、傘塔婆、楼主庄司・野村・西田三氏の供養碑と共に貴重な資料である。
また、本寺には江戸時代中期ごと、一老人が孫のおできの治療を地蔵に礼願し、そのお礼に蓬餅を供えたとの言伝えがある。それが世人に広まり、地蔵を草餅如来、本寺をくさもち寺と呼ぶようになったという。(東京都足立区教育委員会)

正憶院について

京都知恩院末 浅草橋場 敬重山弁空寺正憶院 境内644坪内192坪拝領地、452坪年貢地、外門左右250坪畠持添地
元和8年草創也。初同所中宿ニ在之。檀家之旧説ニ、古ハ浅草三十三間堂之所ニ有テ矢先ノ正憶院ト云し由。清水寺之辺也。今開山初住之地なるへし。明暦3年御瓦置場御用地ニ被召上、代地之儀寺社御奉行久世大和守殿へ奉願、同村当寺は芝元善坊屋人切場之内にて代地并に引料金拝領し、同4年6月朔日院宇を移す。境内表23間裏行28間、644坪、内192坪御除地、452坪御年貢地。即今之寺地是也。此辺都而浅茅原ト云。
開山法誉上人正憶大和尚、豆州山中之城主横山五郎左衛門尉正勝之嫡子正次与申せし人にて御座候。開山法誉上人、延宝7年12月12日ニ寂ス。(御府内寺社備考より)

善応寺所蔵の文化財

  • 吉原遊女供養塔(足立区登録有形文化財)

善応寺の周辺図