観林山常楽寺|河内与兵衛が中興、荒綾八十八ヶ所、新四国四箇領八十八ヵ所
常楽寺の概要
真言宗豊山派寺院の常楽寺は、観林山と号します。常楽寺の創建年代は不詳ですが、河内与兵衛が寛永年間(1624-1643)中興開基、慶安元年寺領3石の御朱印状を拝領したといいます。荒綾八十八ヶ所霊場の第20番、西新井組中川通四箇領八十八箇所86番札所です。
山号 | 観林山 |
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院号 | - |
寺号 | 常楽寺 |
住所 | 足立区竹の塚1-10-16 |
本尊 | 聖観音坐像 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 荒綾八十八ヶ所霊場20番札所 |
常楽寺の縁起
常楽寺の創建年代は不詳ですが、河内与兵衛が寛永年間(1624-1643)中興開基、慶安元年寺領3石の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による常楽寺の縁起
常楽寺
これも総持寺の末なり、観林山極楽院と號す、當寺も河内輿兵衛が草創にして、寺領三石も同年に賜へりと云、本尊正観音を安す。
熊野三社(新編武蔵風土記稿より)
「ブックレット足立風土記保木間地区」による常楽寺の縁起
常楽寺
河内胤盛を開基とする。墓地に江戸時代の文人竹塚東子(谷古宇与兵衛)の墓もある。(「ブックレット足立風土記保木間地区」より)
足立区教育委員会掲示による常楽寺の縁起
当寺は真言宗豊山派で観林山常楽寺という古い寺で、寛永年間(1624-1643)河内与兵衛によって中興されたと伝えられている。
本尊は聖観音坐像で江戸中期のものと思われる。他に弘法大師・興教大師・閻魔の坐像・六地蔵、文久2年(1862)の十三仏画等がある。
墓地には、足立が生んだ江戸の文人、竹塚東子の墓がある。東子は実名を谷古宇四郎左衛門といい、寛政・享和・文化にかけて著作活動をした文人である。
東子は山東京伝の門人で、俳諧を越ヶ谷の会田吾山に学び、狂歌・落語・活花等もよくした風流人でもあった。出世作に寛政2年(1790)刊の「田舎談義」があり、文化元年(1804)刊の「敵討名誉一文字」以降は敵討ものを主とした。文化12年(1815)11月13日没、法名は喬雲醍醐居士という。(足立区教育委員会掲示より)
足立風土記資料寺院明細による常楽寺の縁起
中本寺西新井総持寺末 東京府管轄武蔵国足立郡竹塚村 観林山常楽寺
創立年暦并開山不詳、香衣一色着用寺格
第25世宥貞、壬申50歳。印旛県管轄下総国印旛郡楠山村農植村平兵衛二男、天保10年3月20日右西新井総持寺於得度、弘化3年10月5日入寺、本山大和国小池坊留学25ヶ年。以上僧一人。
境内、2反1畝歩、但除地。檀家、53軒。門末、無之。庵室等、無之。
常楽寺の周辺図