西光院|足立区竹の塚にある真言宗豊山派寺院

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正入山西光院|荒綾八十八ヶ所

西光院の概要、新四国四箇領八十八ヵ所

真言宗豊山派寺院の西光院は、正入山積善寺と号します。西光院は、河内輿兵衛胤盛(寛永7年寂)が開基となり創建、慶安元年(1648)寺領3石の御朱印状を拝領したといいます。荒綾八十八ヶ所霊場10番、西新井組中川通四箇領八十八箇所87番札所です。

西光院
西光院の概要
山号 正入山
院号 西光院
寺号 積善寺
住所 足立区竹の塚1-3-16
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 荒綾八十八ヶ所霊場10番札所



西光院の縁起

西光院は、河内輿兵衛胤盛(寛永7年寂)が開基となり創建、慶安元年(1648)寺領3石の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による西光院の縁起

西光院
新義真言宗、西新井村総持寺の末、西入山積善寺と號す、本尊正観音を安ず、開基を河内輿兵衛胤盛と云、寛永七年八月十二日卒す、其子弥兵衛胤平が願によりて、慶安元年九月十七日寺領三石の御朱印を賜へり、名主久蔵は則輿兵衛が子孫なりと云、彼が家傳に河内氏は千葉介直胤が末葉にして、中古臼倉を氏とす、小田原北條氏に仕へ、下総国河内郡を(按に下総國に此郡名なし、常陸國にあり、則下総國に接せし郡なれば、其地の事にや)領せしにより、河内と改む、其頃の先祖を河内但馬常親と云、其男右近知親其子輿兵衛胤盛に至り、天正十八年北條氏没落の後、當所に土着し後ご家人へ召出され、御代官となれり、其男弥兵衛父の家を継ぐ今旗下の士河内采女正は其子孫なり、名主久蔵はかの輿兵衛が二男嘉右衛門と云し者の子孫なりと云、按に伊興村氷川社に納る慶長十四年の棟札に、大旦主御代官河内輿兵衛知親と載たり、されば輿兵衛胤盛が召出されしと云は疑べし、恐らくは父右近も初め誉兵衛と呼て、其頃召出されしなるべし。(新編武蔵風土記稿より)

足立区教育委員会掲示による西光院の縁起

本院の開基は、河内与兵衛胤盛(寛永8年・1631年没)である。河内氏は、天正18年(1590)小田原北条氏の没落後、この地竹塚村に土着し、のち徳川家に仕え、その一家は代々当村の名主を勤めていた。
本堂前にある金剛界大日如来坐像(銅造)は、智拳印を結び、宝冠をいただき、整然として美しい顔立ちをしたものである。中央の蓮弁に、元禄12年(1699)9月、河内喜衛門・同久蔵・母かく・河内久左衛門などの名が、左右蓮弁には、近隣の村々の寄進者名が数多く彫られている。
境内にある河内先生追慕之碑は、河内武胤、通称久蔵(慶応4年、1868年没)の門人が明治17年に建てたもので、隷書の大家中根半嶺の書である。門前には新四国八十八ヶ所と荒綾八十八ヶ所霊場の標石がある。また、明治12年には、寺内で公立正嬌小学校が開校された。(足立区教育委員会掲示より)

足立風土記資料寺院明細による西光院の縁起

中本寺西新井総持寺末 東京府管轄武蔵国足立郡竹塚村 正入山西光院
創立年暦并開山不詳、香衣一色着用寺格
第39世快光、壬申33歳。東京府管轄武蔵国足立郡大谷田村農鈴木仲右衛門次男。嘉永3年8月12日埼玉県管轄同国同郡瀬崎村於善福寺得度、元治元年3月12日入寺、本山小池坊留学5ヶ年。以上僧一人。
境内、1反1畝歩、但除地。檀家、37軒。門末、無之。庵室等、無之。

西光院の周辺図