清瀧山観音寺|豊島八十八ヶ所霊場
観音寺の概要
真言宗豊山派寺院の観音寺は、清瀧山龍光院と号します。天文年中(1532-1553)に長偏僧都が開基となり創建したといいます。寛政10年(1789)以降には徳川将軍の鷹狩りの御膳所となっていました。豊島八十八ヶ所霊場6番札所です。
山号 | 清瀧山 |
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院号 | 龍光院 |
寺号 | 観音寺 |
住所 | 荒川区荒川4-5-1 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 豊島八十八ヶ所霊場6番札所、三河島幼稚園併設 |
観音寺の縁起
観音寺は、天文年中(1532-1553)に長偏僧都が開基となり創建したといいます。江戸時代には、法界寺と共に将軍鷹狩りの際の御膳所にあてられていました。
新編武蔵風土記稿による観音寺の縁起
観音寺
新義真言宗、足立郡西新井村総持寺末、清龍山龍光院と号す。本尊十一面観音。天文年中長偏僧都開基す。寛政10年此邊御放鷹の時御膳所となりしより今も御膳所となれり。
鐘楼。貞享3年の鋳造なり。
聖天社。(新編武蔵風土記稿より)
徳川将軍鶴お成り
江戸時代の三河島近辺は鶴の飛来地で、毎年11月からの農閑期に、竹の囲いを廻らして、つるの餌付けがおこなわれていた。 将軍家は特に八代吉宗以降、頻繁に鷹狩りを行った。なかでも鶴は珍重され、鶴の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴お成り」と称され、捕らえた鶴は天皇に献上する習わしであった。三河島筋の鶴お成りの際には、観音寺か法界寺が御膳所にあてられた。 観音寺にお成りの場合は、将軍は正門からではなく、東側の竹藪を切り開いて出入りしたという。そのつど寺では土地の名産「三河島菜」を献上するのが例であった。(荒川区教育委員会掲示より)
観音寺所蔵の文化財
- 絹本着色真言八祖画像(荒川区登録文化財)
絹本着色真言八祖画像
真言八祖画像とは、真言密教の祖師である龍猛・龍智・金剛智・善無畏・不空・一行・空海の八人の像をいいます。
観音寺の周辺図