善性寺|将軍家ゆかりの寺、根岸古寺めぐり9番
善性寺の概要
日蓮宗寺院の善性寺は、関妙山と号します。長亨元年(1487)に創建、寛文4年(1664)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となりました。根岸古寺めぐり9番札所となっています。
山号 | 関妙山 |
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院号 | - |
寺号 | 善性寺 |
住所 | 荒川区東日暮里5-41-14 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 根岸古寺めぐり9番札所 |
善性寺の縁起
善性寺は、長亨元年(1487)尊重院日嘉を開山として創建したと伝えられます。寛文4年(1664)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、徳川将軍家ゆかりの寺となりました。
新編武蔵風土記稿による善性寺の縁起
善性寺
法華宗甲斐国身延久遠寺末、関妙山と号す。開山尊重院日嘉、長享元年8月起立し、永正3年7月3日寂す。十四世常知院日性の時、文昭院殿の御母公長昌院大夫人[始は専光院殿と号す]寛文4年2月28日卒去の時遺言に任せて当寺に送葬せらる。故を以て寛永2年5月当国足立郡の内にて寺領100石を賜はり、又境内年貢地たりしを同き6月拝領地に改らる。依て日性を中興と称す。同年10月12日東叡山中林光院へ御改葬ありし時、阿部備中神正喬其ことを掌れり。抑大夫人は於保良方と号す。田中清兵衛某女なり。清陽院殿贈太政大臣に侍して交昭院殿を産し奉り、後越智與右衛門清重に賜りて妻女となり、難産に逢て卒せらる。此時設る所の子松平右近将監清武是なり。中興日性は享保16年9月27日寂す。中興開基妙成院日義俗称関善左衛門として村の小民なり。今猶子孫あり。本尊三寶祖師。
三十番神堂。当村の鎮守なり。毎年正月15日祭れり。
鐘楼、寛永7年鋳造の鐘をかく。(新編武蔵風土記稿より)
将軍橋と芋坂
善性寺は日蓮宗の寺院で、長亨元年(1487)の開創と伝える。寛文4年(1664)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。
宝永年間(1704-1711)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
善性寺の向い、芋坂したには文政2年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。(荒川区教育委員会)
安産飯匙の祖師由来
瑞輪寺に掲示されている安産飯匙の祖師由来によると、善性寺は、日蓮聖人が佐渡から鎌倉へ向かう途中に立ち寄った武蔵国粂川の関善左衛門が入信後、当寺を建立したとあります。
江戸十祖師 安産飯匙の祖師由来
文永11年(1274)3月13日
日蓮聖人佐渡配流、赦免となり鎌倉に向かうの途路、武蔵国粂川の辺りに関善左衛門という者あり、その妻難産に苦しみ救いを請う、聖人その家に入り、給うに、たちどころに安産して母も子もつつがなし、一家一門その感応を拝みて入信、かしこみて聖人の御尊像を彫みて武州谷中(現西日暮里)に善性寺を建立しその尊像を安置す。
のち谷中感応寺(現在の天王寺)に移す。
以来安産救護の利益あらたかに多く庶民の信仰を得、元禄11年(1698)11月12日、感応寺(現天王寺)改宗を命せられし折り、御尊像を瑞輪寺に勧請、利益昔に変わらず。
平成21年5月吉日 瑞輪寺第57世井上日修代
善性寺の周辺図