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瑞輪寺|台東区谷中にある日蓮宗寺院

瑞輪寺の概要

日蓮宗寺院の瑞輪寺は、慈雲山と号します。瑞輪寺は、慈雲院日新上人が身延山の江戸宿寺として天正19年(1591)開山したといいます。元禄年中には、不受不施派の弾圧により、天台宗へと改宗させられた感應寺(現天王寺)から、江戸十祖師の一つである安産飯匙の祖師を移しています。その後慶安2年(1649)当地へ移転したといいます。江戸期には、身延山久遠寺末触頭で、善立寺宗延寺と並び日蓮宗(旧法華宗)江戸三大触頭の一つに連なる名刹です。

瑞輪寺
瑞輪寺の概要
山号 慈雲山
院号 -
寺号 瑞輪寺
住所 台東区谷中4-2-5
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 江戸十祖師の安産飯匙の祖師、日蓮宗由緒寺院



瑞輪寺の縁起

瑞輪寺は、慈雲院日新上人が身延山の江戸宿寺として天正19年(1591)開山したといいます。元禄年中には、不受不施派の弾圧により、天台宗へと改宗させられた感應寺(現天王寺)から、江戸十祖師の一つである安産飯匙の祖師を移しています。その後慶安2年(1649)当地へ移転したといいます。

御府内寺社備考による瑞輪寺の縁起

甲斐国身延山久遠寺松 谷中不唱小名
慈雲山瑞林寺、境内拝領地9600坪東叡山年貢地600坪。
当寺起立は、天正19年。年恐依、東照宮命、大窪冶右衛門殿奉行ニ而於馬口労町、百間四方之寺地拝領被仰付。則堂塔御建立被下置、御朱印も頂戴仕、日新が院号を以山号ニ可致旨被仰付。即慈雲山与号候。右開山日新与申者、本山身延17代之住持、開基日蓮大菩薩より嫡々相承之弟子ニ而、権現様御開国以前より毎度御懇意之蒙上意、所々之御陣江御祈祷御礼献上仕並御伺蝋燭献上仕候。天正18年小田原御陣中江御祈祷御礼御馬之履一千足並杉原紙等献上仕候。日新江被下置候。
御直書之御消息数通、以今身延山蔵中ニ守護仕候。右由緒を以、権現様御入国之砌、身延山江千石之寺領可被為有御寄附旨、御懇之 上意有之候処、日新申上候は、当山は祖師日蓮正統之遺跡ニ而一宗総本山之道場ニ候得は、諸国参詣之旦供を以相続致来候間、寺領頂戴之儀は乍恐御免被成下、何卒御一統之砌宗門修学檀林地一ヶ所御免被成下、別ニ於御城下身延宿院地一ヶ所起立被成下候は、永法流弘通仕難有奉存候旨奉願候処、両様共に御聞済被為候遊、下総国飯高寺檀林御朱印30石頂戴仕、当寺江も御朱印頂戴仕候。其後慶長6年神田筋橋外江引地被仰付。然処慶長11年寺門類焼之砌御朱印等焼失仕、御書替も不奉願候。
台徳院様神田御堀御普請之砌、当寺儀御差支ニ相成候ニ付、依之引寺可被仰付之処、則従御櫓本堂屋根被遊上覧、上意ニ御城より瑞林寺へ橋を筋違ニ掛ケ候而、寺引越之儀は用捨可致旨、厚き御憐愍之蒙、上意候。其後焼失仕。
大猷院様御時慶安2年、寺社奉行安藤右京之進殿御掛ニ当所ヘ引寺被、仰付候得共、百間四方之地所拝領仕候。乗輿独礼席ニ被仰付、日蓮一宗門両派触頭7組15ヶ寺筆頭、正徳3年被仰付候ニ付、今以御用相勤申候。
開山慈雲院日新上人は、身延山久遠寺17代住職。天正20年8月11日寂。(御府内寺社備考より)

安産飯匙の祖師由来

江戸十祖師 安産飯匙の祖師由来
文永11年(1274)3月13日
日蓮聖人佐渡配流、赦免となり鎌倉に向かうの途路、武蔵国粂川の辺りに関善左衛門という者あり、その妻難産に苦しみ救いを請う、聖人その家に入り、給うに、たちどころに安産して母も子もつつがなし、一家一門その感応を拝みて入信、かしこみて聖人の御尊像を彫みて武州谷中(現西日暮里)に善性寺を建立しその尊像を安置す。
のち谷中感應寺(現在の天王寺)に移す。
以来安産救護の利益あらたかに多く庶民の信仰を得、元禄11年(1698)11月12日、感應寺(現天王寺)改宗を命せられし折り、御尊像を瑞輪寺に勧請、利益昔に変わらず。
平成21年5月吉日 瑞輪寺第57世井上日修代


瑞輪寺所蔵の文化財

  • 大久保主水墓(東京都指定文化財)
  • 絹本着色八相涅槃図(台東区登載文化財)
  • 銅造釈迦如来坐像(台東区登載文化財)
  • 大沼枕山墓(台東区登載文化財)

大久保主水墓

名は忠行、または藤五郎と称す。三河国の武士で、徳川家康に仕え三百石を給されていた。一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし、以後、家康に菓子を献じたという。
天正18年(1590)家康は江戸に入り町づくりを始める。用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功した。これを神田上水といい、江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。
この功により、家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を勤めた。なお、墓の近くにある八角形の井戸は、天保6年(1835)十代名忠記が、忠行の業績を顕彰したものである。元和3年(1617)没。

銅造釈迦如来坐像

瑞輪寺は、日蓮宗身延山久遠寺末で、天正19年(1591)久遠寺17世日新が、日本橋馬喰町に創立。慶長6年(1601)神田筋違橋に移転し、慶安2年(1649)現在の場所に移りました。
本像は、青銅製で割型という製法により鋳造され、肉身部は金泥で塗られています。螺髪は粒状、肉髻珠・白毫相を表し、法界定印を結び、台座上で結跏趺坐します。像の高さは、約1mで、台座の高さを入れると1.2mを超える大きな像です。
台座部分は、蓮の花弁が反り返った状態を表す反花と、その下の八角型の框座という2つの部分に分かれており、どちらにも銘文がぎっしりと刻まれています。銘文はすべて戒名と年月日ですが、整然と並べられておらず、最も古い銘が貞享3年(1686)、最も新しい銘が文政11年(1828)と、年代に幅があることから、時期を追って刻まれたものと考えられます。
像の背面には、
武州谷中
慈雲山瑞輪寺塔頭造立之
正徳二壬辰年二月十五日
当山十四世
乗妙院
日感〔花押〕
南無釈迦牟尼仏 為一門法界
施主 江府住 山田常祐
同姓太郎兵衛
と刻まれており、本像は江戸時代中頃、正徳2年(1712)2月15日に制作され、願主は瑞輪寺14世日感、施主は江戸の住人山田常祐と山田太郎兵衛と知られます。日感は、元文2年(1737)に69歳で没しました。
 区内にはほかにも江戸時代の銅造の仏像が残されており、天王寺(谷中)釈迦如来坐像、九品寺(花川戸)阿弥陀如来坐像、天嶽院(西浅草)阿弥陀如来坐像の3件は、既に区の文化財台帳に登載されています。また、寛永寺(上野桜木)の釈迦如来坐像と東禅寺(東浅草)の江戸六地蔵は、都有形文化財に指定されています。

大沼枕山墓

大沼枕山は、幕末・明治時代前期に活躍し、江戸時代最後の漢詩人といわれ、日本漢詩史上重要な人物です。文政元年(1818)、下谷三枚橋付近(現在の地下鉄仲御徒町駅付近)に生まれました。
父が死んだとき、枕山はわずか10歳であったため、尾張(今の愛知県)に一時身を寄せますが、天保6年(1835)江戸に戻り、当時の江戸漢詩の大家梁川星巌に出会い、その才能が開花します。弘化2年(1845)星巌が江戸を離れたあと江戸詩壇を背負ったのは、ほかならぬ枕山が下谷三枚橋に開いた「下谷吟社〈したやぎんしゃ〉」であり、明治維新後も、なお下谷吟社は当時の詩壇の中心的な存在でした。
枕山は明治24年10月、74歳で没しました。代表作は『枕山詩鈔』。瑞輪寺が墓所に選ばれたのは、晩年に枕山が住んだ下谷花園町(現、池之端)に近かったからといわれています。墓石は安山岩で高さ145cm、表面に「枕山大沼先生之墓」と大書され、枕山の門人の手で建てられました。台東区で生まれ、住み、区内の「不忍池の蓮」や「隅田川の月」など江戸の四季折々の風物を詠み続けた枕山の墓は、台東区の歴史を知る上で貴重な文化財です。

絹本着色八相涅槃図

当寺は日蓮宗身延山久遠寺末で、天正19年(1591)久遠寺17世日新が日本橋馬喰町に創立。慶長6年(1601)神田筋違橋に転じ、慶安2年(1649)現地に移りました。江戸時代に2度の大火に遭い、幕末には上野戦争の兵火に罹り、現在の堂宇はその後の再建です。
釈迦が亡くなる情景を描いたものを、涅槃図といいますが、本図は、特に涅槃の前後を取り上げたもので、これを「八相涅槃図」と呼びます。
中央に大きく釈迦が臥す姿を描き、周囲に区画を設けずに、前後の七場面を描き、金泥塗の短冊形に墨書で題詞を書き入れ、説明がなされています。本画像の図様は、鎌倉時代末に制作された国重要文化財・岡山遍明院蔵本と細部までほとんど同じですが、遍明院本にない題詞が書かれてあり、貴重です。縦162.5cm、横135.2cm。
作者は、落款により、勝山琢眼(1747-1824)と知られ、奈良・京都を中心に江戸時代後期に活躍した絵師です。本図の伝来は不明ですが、作者が京都の画人であり、古図を写すのに長じたという記録により、京都周辺で模写され、やがて関東にもたらされたと考えられます。


瑞輪寺の旧末寺、塔頭寺院

  • 大輪院
  • 本立院
  • 大乗坊
  • 玉泉坊
  • 本妙坊(本妙院
  • 久成坊(久成院
  • 正行坊(正行院
  • 恵遠坊
  • 情延坊(浄延院
  • 玄妙坊
  • 瑞泉坊
  • 円遼坊
  • 体仙坊(躰仙院
  • 善祥坊
  • 本静坊

瑞輪寺の周辺図


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