簸川神社|文京区千石の神社
簸川神社の概要
簸川神社は、文京区千石にある神社です。簸川神社は、第五代孝昭天皇の頃に創建したと伝えられ、八幡太郎源義家が参籠した古社だといいます。中世に傳通院等を創建した了誉上人が当社を再興、小石川、巣鴨の総社となっていたといいます。承応元年(1652)白山御殿造営のため原町に遷座、さらに元禄12年(1699)当地へ遷座したといいます。
社号 | 簸川神社 |
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祭神 | 素盞嗚尊 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷神社、他2社 |
住所 | 文京区千石2-10-10 |
祭日 | 例祭日9月10日 |
備考 | 旧村社 |
簸川神社の由緒
簸川神社は、第五代孝昭天皇の頃に創建したと伝えられ、八幡太郎源義家が参籠した古社だといいます。中世に傳通院等を創建した了誉上人が当社を再興、小石川、巣鴨の総社となっていたといいます。承応元年(1652)白山御殿造営のため原町に遷座、さらに元禄12年(1699)当地へ遷座したといいます。
文京区教育委員会掲示による簸川神社の由緒
社伝によれば、当神社の創建は古く、第五代孝昭天皇のころと伝えられ、祭神は素盞嗚尊である。
源義家(1039-1106)が奥州平定の祈願をした社といわれ、小石川、巣鴨の総社として江戸名所の一つであった。
もとは現在の小石川植物園の地にあったが白山御殿造営のため、元禄12(1699)この地に移された。社殿は、さきの空襲にあい全焼失したが、昭和33年(1958)に再建された。
境内の幟建一対は江戸時代、善仁寺門前町氏子中により奉納された貴重な石造物である。なお、1基は平成12年久堅町民会の尽力で修復されたものである。(文京区教育委員会掲示より)
東京都神社名鑑による簸川神社の由緒
当社は、植物園の御殿坂辺にあった貝塚の中の古墳上に、第五代孝昭天皇の御代に創立されたと伝えられ、承応元年(一六五二)白山御殿造営のため原町に移され、さらに元禄十二年(一六九九)景勝の地を選び、現在地に移された。
八幡太郎義家が参籠した古社で、中世了誉上人の再興により江戸名所の一つになり、小石川総社として、氏子一橋家の尊崇篤く、明治二十三年十月畏くも皇太子であらせられた大正天皇が、植物園にお成りのみぎり、御参拝あらせられた。(東京都神社名鑑より)
「小石川區史」による簸川神社の由緒
林町に在り、祭神は素戔嗚尊である。其創建は社傳に依れば『江戸誌』、『江戸砂子』、『武蔵國風土記』『江戸名所圖會』等の傳へる所と一致しないが、大體人皇第五代孝昭天皇の御代の鎮座であると言ふ。
『江戸砂子』に依れば、傳通院開山了譽聖人が當國一の宮の氷川明神を元白山御殿の地に勸請したが、御殿造營の砌今の地に移されたものであると言ひ、『江戸名所圖會』に依れば、『當社は千餘年を經たる所の宮社にして、八幡太郎義家公奥州下向の時、宮社に参籠ありしと言ひ傳ふ、中古荒廢して形ばかり殘りしを、傳通院の開山了譽聖人此の地の幽邃を愛し、庵を結んで聖冏庵と名附け、此の地に閑居有りし頃、宮居を重修有りしとなり』と記されて居り、了譽聖人の頃より、其名を喧傳された事が知られる。
江戸時代には戸崎町宗慶寺の預る所で、境内約千坪、小石川の大部を氏子として相當に榮えて居たが、明治九年村社に列せられた。現状は植物園の西北に隣し、杉、椵の老樹鬱蒼として繁茂し、社殿は近年新たに改築せられたものであるが、どこかに神寂びた古社の趣がある。
祭日は九月十日で、氏子は林町、大原町、原町、久堅町、丸山町、柳町、宮下町、戸崎町、八千代町、土富阪町、竹早町、西丸町、西原町一・二丁目、駕籠町、氷川下町、白山御殿町等である。
從来の氷川神社を簸川神社と改稱したのは近年のことである。(東京都神社名鑑より)
簸川神社の周辺図
参考資料
- 東京都神社名鑑
- 「小石川區史」