宗慶寺|文京区小石川にある浄土宗寺院

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吉水山宗慶寺|小石川七福神の寿老人、阿茶局の隠居寺

宗慶寺の概要

浄土宗寺院の宗慶寺は、吉水山朝覚院と号します。宗慶寺は、常陸国の了誉聖冏上人が応永22年(1415)小石川の清泉のほとりに創建したと伝えられます。この清泉を法然上人の遺跡にちなんで「吉水」と呼んだことから吉水山伝法院と称したといいます。「吉水」は極楽水、極楽の井とよばれ、付近一帯の地名となったといい、小石川パークタワー内に極楽水として遺っています。慶長7年(1602)徳川家康の母於大の葬儀に利用され菩提所となり、伝通院となりましたが、普光観智国師が伝法院の旧蹟を再興、徳川家康の側室阿茶局(法名朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼)の隠居寺となり、寺号を宗慶寺、院号を朝覚院と改めたといいます。当寺には、小石川七福神の寿老人が安置されています。

宗慶寺
宗慶寺の概要
山号 吉水山
院号 朝覚院
寺号 宗慶寺
住所 文京区小石川4-15-17
本尊 阿弥陀如来像
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 小石川七福神の寿老人



宗慶寺の縁起

宗慶寺は、増上寺住職西譽上人の願いにより、常陸より江戸に来た酉蓮社了誉聖冏上人が、応永22年(1415)小石川の清泉のほとりに創建したと伝えられます。この清泉を法然上人の遺跡にちなんで「吉水」と呼んだことから吉水山伝法院と称したといいます。「吉水」は極楽水、極楽の井とよばれ、付近一帯の地名となったといい、小石川パークタワー内に極楽水として遺っています。慶長7年(1602)徳川家康の母於大の葬儀に利用され菩提所となり、伝通院となりましたが、普光観智国師が伝法院の旧蹟を再興、徳川家康の側室阿茶局(法名朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼)の隠居寺となり、寺号を宗慶寺、院号を朝覚院と改めたといいます。

「小石川區史」による宗慶寺の縁起

吉水山朝覺院宗慶寺。浄土宗鎮西派、傳通院末。本尊阿彌陀如来。當寺の開創は應永二十二年で、開山は酉蓮社了譽上人聖冏大和尚である。その由来は上人が高弟西譽上人(當時増上寺住)の請によつて、常陸より江戸に来り、當地に草庵を結んだのが起りで、其草庵が精舎となり、庭内の清水にちなんで吉水山傳法院と號した。慶弔七年傳通院殿逝去の砌、當寺に入棺したが、境内狭隘の爲め別に一宇を建立したのが今の傳通院で、由緒より云へば當寺が傳通院の本寺に當るわけである。元和七年松平忠輝公母堂茶阿局を當寺に埋葬してから、其法號朝覺院殿貞譽宗慶大禪定尼に因んで朝覺院宗慶寺と改稱した。寛永年中、傳通院第四世叡譽聞悦上人が中興してから傳通院末となり、江戸時代には氷川明神社の別當を兼ね、境内古跡地三千二百三十坪を擁し、大いに榮えた。その境内の清水は氷川明神より開山了譽上人に賜はつたといひ傳へて極楽水(幕末には松平播磨守邸内に入る)と稱せられ、それが附近一帯の地名ともなつた。現本堂は大正九年の改築にかかり、茶阿坪局の墓は境内に現存して、史蹟愛好者の参詣するものが多い。當寺は小石川屈指の古刹であるから、『江戸名所記』『江戸名所圖會』『江戸砂子』を始め、江戸時代の諸書にその記載が多い。(「小石川區史」より)

東京名所図会による宗慶寺の縁起

宗慶寺は。久堅町九十九番地に在り。吉水山と號し。朝覺院と稱す。浄土宗にして傳通院の末なり。開山は酉蓮社了譽上人聖冏大和尚にて。往古は傳寳院と稱せし草庵なりしといふ。境内に極楽井あり。今尚ほ存す。之を吉水と號す。故に吉水山と名く。
越後少将の母儀茶阿局。此地に在り。元和七年辛酉六月十三日歿す。當寺に葬る。法號は左の如し。
朝覺院貞殿譽宗慶大姉
寺院の名稱は全く此より起れり。
開山了譽上人の墓も墓域西の邊に在り。
江戸砂子に云。開山了譽上人。應永二十二年二月二日。西譽上人のまねきによりて瓜連より武の小石川に至り。勝地を得て菴を結ぶ。吉水と號すと。當寺のこと也。吉水とは遺跡をしたひて名付られしと也。
開山了譽上人の略傳に云。了譽上人姓は源。本國常州久慈郡岩瀬城主白石志摩守義光の男。其の母岩瀬の守に祈り。暦應四年正月二十五日出生。義光戦死の年。母公草地山常福寺に至り。了寳上人に投じて。薙髪せしむ。干時八歳。後ち鎌倉光明寺に至り。空惠上人を桑原道場に訪ふ。干時二十歳也。二十五歳吉水の宗義奥訣悉く傳へらる。それより諸州を経歴して。密教は祐存に受け。台宗は真源に學び。禅は但馬の月寮天命の二老師に参得し。神道を治部大輔に習ひ。和歌は頓阿法師に従ひ。古今の序註十巻を著す。永和四年下野大庭山往生院南瀧坊に寓して宗を弘む。千葉貞胤の子徳千代丸を弟子とす。是れ増上寺開山大蓮社酉譽上人なり。師に先ちて武江に来り。貝塚に増上寺を開基す。嘉慶二年に瓜連に火ありて。常福寺の殿堂烏有となる。上人此時住職せり。其の後草地山を出で武江に来り。干時應永二十二年二月二日。貝塚に至て酉譽を訪ひ。あまねく郡中を経て小石川に至り。勝地を得て草庵を結ぶ。傍に清水あり。師名けて吉水と呼ぶ。是れ元祖の遺跡を慕ひ給ふ故なり。此地今の極楽水宗慶寺也。應永二十七年九月二十七日八十歳にして遷化。世に三日月上人と云。
現況
黒門の前に石標を建て極楽水と題す。門内には明治二十一年四月三日に設けし巨碑あり。刻して家祖篠吉五郎大人五十年祭記念碑といふ。背面に「五十路ふるむかしを慕ふまごころの花に通ひてささの香そする照月」とあり。本堂は假講のものにして目今建築費募集中なり。
墓域内には。正二位橋本實麗、正三位伏原宣諭、金子迪篤並に多年本誌に盡力されし野口勝一(河北仙史)翁の墓あり。(文京区教育委員会掲示より)

文京区史跡さんぽ実施報告書による宗慶寺の縁起

宗慶寺は、もと吉水山伝法院(一説には伝宝院)といい、室町時代応永22年(1415)の創建という。開山は常陸国の了誉聖冏上人である。上人は武蔵国豊島郡小石川の清泉のほとりに、小さな草庵を結んだ。この清泉を法然上人の遺跡にちなんで「吉水」と呼んだ。のちに極楽水、極楽の井とよばれ、付近一帯の地名となった。応永27年(1420)上人は痛に伏し、9月27日の早朝、身を浄め、辞世の句を胸に入寂したという。のちに草庵は一寺となり名を吉水山伝法院と呼んだ。
天正18年(1590)、徳川家康が関八州の領主として、江戸に入府した。当時の江戸は東国の草深い一寒村で、小石川の周辺は氷川田園で、見渡すかぎりの水田が広がっていた。
慶長7年(1602)家康の母、於大の方が没し、伝法院を菩提所とするよう命を受けた。しかし、当寺では境内が狭く、新しく一寺を開創し、菩提寺とした。
於大の方の法名が伝通院殿容誉光岳智香大姉から、この寺を伝通院と呼んだ。
於大の方の葬儀がとどこおりなく終了した後、普光観智国師が家康に会い、聖冏上人の業績を示し、その徳を説き伝法院の再興を願い出た。家康の許可で寺の再興が実現した。この寺が宗慶寺である。
元和2年(1616)家康が逝去すると、側室茶阿局は剃髪し、宗慶尼と称し、この寺に隠棲した。茶阿局は家康の第六男忠輝の母である。忠輝は越後国高田70万石に移封され、越後少将といわれた。しかし、二代将軍秀忠の怒りにふれ、勘当を申しつけられた。茶阿局が詫びを入れたが許されず、家康の臨終にも立ち会うことができなかった。元和2年(1616)越後の国を没収され、飛騨高山や信州諏訪に配流され、天和3年(1683)92歳の生涯を終えた。
茶阿局は、元和7年(1621)失意のまま、当寺で没した。法名を朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼とした。
伝法院が現在の宗慶寺と改めたのは宗慶尼の法名による。
墓は宗慶寺の本殿前に安置されている。戦前には茶阿局の絵や肖像が残されていたと思われるが、昭和20年(1945)5月25日夜の東京大空襲により、納骨堂を残し、本堂、庫裡は全焼した。
それらの遺品もすべて焼失してしまった。残念なことである。(文京区史跡さんぽ実施報告書より)


宗慶寺所蔵の文化財

  • 阿茶局墓碑

阿茶局墓碑

この墓碑は、元和7年(1621)の年紀をもつ古い宝篋印塔である。太平洋戦争により、宗慶寺は大きな被害を受けたが、当寺と檀信徒の絶大な協力で、この墓碑は、旧観を今に残している。葵の紋が鮮やかである。
阿茶局は、駿河(現静岡県)の人で、家康の没後、髪をおろして朝覚院と称し、飛騨高山に流謫の忠輝を案じながら、元和7年6月12日、没した。
法名「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」にちなんで、寺は宗慶寺と称するようになった。この寺の創建は古く、応永22年(1415)と伝えられ、家康の生母伝通院(於大の方)の墓所のある伝通院とゆかりの深い寺である。(文京区教育委員会掲示より)


宗慶寺の周辺図


参考資料

  • 「小石川區史」
  • 東京名所図会
  • 「文京区史跡さんぽ実施報告書」