慈昭山日輪寺|小日向神社の別当寺として創建
日輪寺の概要
曹洞宗寺院の日輪寺は、慈昭山と号します。日輪寺は、吉祥寺第八世松栖用鶴大和尚(寛永七年寂)が、小日向神社の別当寺として慶長13年(1608)創建したといいます。
山号 | 慈昭山 |
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院号 | - |
寺号 | 日輪寺 |
住所 | 文京区小日向1-4-18 |
本尊 | 釈迦牟尼佛像 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
日輪寺の縁起
日輪寺は、吉祥寺第八世松栖用鶴大和尚(寛永七年寂)が、小日向神社の別当寺として慶長13年(1608)創建したといいます。
「小石川區史」による日輪寺の縁起
慈照山日輪寺。曹洞宗大本山総持寺、本山駒込吉祥寺末。本尊釋迦如来。當地は元小日向の鎮守と傳へられる氷川明神の社地で、慶長十三年吉祥寺第八世松栖用鶴大和尚(寛永七年五月十六日寂)が、明神別當として一寺を開いたのが當寺の基となつた。尤も氷川明神の縁起については、『新編江戸志』に『氷川神社、上水の上、別當慈照山日輪寺、神主宮崎伊勢守。社傳に小日向總鎮守にして、勧請の年歴詳かならず、四五百年の鎮座といへり。社傳に太田道灌再興すといふなり』とあり、『江戸名所圖會』にも『氷川明神祠上水堀の端慈照山日蓮寺といへる禪林にあり。祭神は當國一宮に同じ。勧請の始久しうして知るべからずといへり。中古太田道灌の再興にして、小日向の鎮守なり。祭禮は正五九月の十七日なり。當社に元亀の年號ある庚申待供養の古碑あり』とあり。又『文政書上』には縁起として、『孝昭天皇の三年、當國足立郡高鼻山に出雲大社を移し、氷川神社と號す。朱雀の御宇平貞盛、平将門を討滅するに際し、氷川神社の霊験あらたかなり。依って此所に小社を建立、氷川神社を移す。文明年中、太田道灌、境内六萬坪餘社地を寄附し、氷川社隆盛に向ふ』とある。是等諸書の所述を併せて考へるに、當社は相當古い勧請で、太田道灌の頃には小日向の鎮守として有名であつたことが知られる。
文政の頃には境内は氷川明神の社地と共に千八百二十二坪餘あつた。明治に至り神佛分離の際、氷川社の神體は小日向神社に奉遷し、社殿は観音堂となり、爾後寺院として今日に傳へた。現本堂は文政二年の建立、境内には庚申碑、石佛、甘酒地蔵尊等があり、又寺内に林子平一族の墓がある。庚申碑は元亀四年二月に立てたもので、『江戸風聞』、『武蔵野古物』、「江戸名所圖會」にも記されてゐる。その後一旦所在を失つたが、明治三十九年、本堂前の土中から發掘され、今本堂の後に立てられてゐる。尚ほ境内には大正幼稚園がある。(「小石川區史」より)
東京名所図会による日輪寺の縁起
日輪寺
日輪寺は小日向水道端町二丁目五十八番地にあり、慈昭山と號す、小日向氷川神社の舊別當なり、曹洞宗吉祥寺末、現住食土蔵宥法。
寺門南に面す、即ち上水端なり、門に秩父霊場第十五番母巣山茂福寺寫及び十六羅漢画幅羅漢講の碑あり、本堂は門内正面に位置し、玄關庫裡改築の建札あり、本堂の西に一宇あり、十一面観世音を安置す、観世音は氷川の本地佛と稱し、堂宇は元氷川神の社殿なり、始め後丘にありしを神佛分離の時、神體は小日向神社へ奉遷し、堂宇を移置せりと。
新編江戸志(九)に云、氷川神社、上水の上、別當慈昭山日輪寺、神主宮城崎伊勢守、社傳に小日向総鎮守にして、勧請の年歴詳かならず、四五百年の鎮座といへり、社傳に太田道灌再興すといふなり。
江戸名所図会(十二)に云、氷川明神祠、上水の端慈昭山日輪寺といへる禅林にあり、祭神は當國一宮に同じ、勧請の始久しうして知るべからずといへり、中古太田道灌の再興にして小日向の鎮守なり、祭禮は正五九月の十七日なり、當社に元亀の年號ある庚申待供養の古碑あり。
住職の談に天慶年間の草創なり、平貞盛将門討伐の時、始めて此地に勧請せりと傳ふと、又小日向神社社掌は景行天皇の御宇日本武尊の勧請と聞くといへり、舊記す今に存せざるを以て道灌以前の事蹟、得て詳かにす可からざるなり。(東京名所図会より)
日輪寺の周辺図
参考資料
- 「小石川區史」
- 東京名所図会