東梅山清林寺|江戸三十三観音霊場
清林寺の概要
浄土宗寺院の清林寺は、東梅山花陽院と号します。創建年代は不詳ですが、鎌倉光明寺住職を後務めることになる観誉龍脱和尚(観誉祐祟上人)が開山となり、永正年間(1504~1521) に神田四軒町付近に創建したといいます。その後焼失し永く無住が続きましたが、天暦和尚が中興、慶長年間(1596-1615)神田柳原へ移転、慶安元年(1652)当地へ移転しました。当寺の観世音菩薩は江戸三十三観音霊場8番、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場15番です。
山号 | 東梅山 |
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院号 | 花陽院 |
寺号 | 清林寺 |
住所 | 文京区向丘2-35-3 |
本尊 | 聖観世音菩薩 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 清林寺さんがの会 |
清林寺の縁起
清林寺の創建年代は不詳ですが、鎌倉光明寺住職を後務めることになる観誉龍脱和尚(観誉祐祟上人)が開山となり、永正年間(1504~1521) に神田四軒町付近に創建したといいます。その後焼失し永く無住が続きましたが、天暦和尚が中興、慶長年間(1596-1615)神田柳原へ移転、慶安元年(1652)当地へ移転しました。当寺の観世音菩薩は江戸三十三観音霊場8番、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場15番です。
「本郷區史」による清林寺の縁起
清林寺
駒込蓬莱町に在り、浅草幡随院末、東梅山陽花院と號す、永正中観譽龍脱(永正六年歿)の神田四軒寺町に創建する處で其後類焼に會して無住となつたが、慶長十八年中興開山光譽天暦之を神田川北美倉橋邊に移し、慶安元年更に現地に移した。境内毘沙門堂には聖徳太子作と傳ふる毘沙門天を安置する。(「本郷區史」より)
御府内寺社備考による清林寺の縁起
下谷幡随院末 駒込四軒寺町(P456)
東梅山陽花院清林寺、境内拝領地1080坪持添年貢地252坪。
当寺起立年代聢不相知凡永正年中ニ寺地豊島郡神田四軒町東西36間南北30間1080坪拝領仕候。開山観誉龍脱和尚、其節依御撰鎌倉光明寺ニ移転被仰付候永正6子年11月8日於光明寺○終仕候。其後清林寺類焼仕候而年久盡無住ニ付中興天暦再建仕候。慶長年中神田柳原北ニ替地仕 仰付候其後慶安元子年并駒込四軒町ニ替地被 仰付候。持添地252坪御年貢相納申候
開山長蓮社観誉龍脱大和尚永正6子年11月8日鎌倉光明寺ニ而示寂。
中興光誉天暦和尚
本堂、間口6間半奥行6間。本尊阿弥陀如来、木立像丈1尺8寸、恵心僧都作。
毘沙門堂、2間四方。下陣3間ニ2間。毘沙門天、木立像丈2寸5分、聖徳太子作。観世音菩薩、木立像丈5尺、16番之札所也。薬師如来、木座像丈1尺。
金毘羅堂、間口1間奥行9尺。神木、木座像丈5寸。
寺宝。一虎之画1軸。
以上丙戌書上。(御府内寺社備考より)
東京名所図会による清林寺の縁起
同(駒込蓬莱町)五十八番地にあり、東海山陽花院と號す、浄土宗京都智恩院末なり、開山は観譽龍脱(永正六年寂)、中興は光譽天暦とす、永正年中創立、初め神田四軒町にあり、慶長中柳原の北に移り、慶安元年又此地に移る、當寺に聖徳太子作と稱する毘沙門天あり。(東京名所図会より)
清林寺の周辺図
参考資料
- 「本郷區史」
- 東京名所図会
- 御府内寺社備考