心城院|文京区湯島にある天台宗寺院

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心城院|柳井堂、湯島聖天、江戸三十三観音霊場

心城院の概要

天台宗寺院の心城院は、元禄7年(1694)、湯島天神別当職の天台宗喜見院第3世宥海大僧都が、大聖歓喜天を湯島天神境内に奉安するため、宝珠弁財天堂として開基したといいます。明治維新により喜見院は廃寺となり、宝珠弁財天堂を心城院と改めました。当院には江戸名水の一つ「柳の井戸」があることから、柳井堂と称され、また聖天を祀っていることから湯島聖天とも称されています。江戸三十三観音霊場7番札所です。

心城院
心城院の概要
山号 -
院号 心城院
寺号 -
住所 文京区湯島3-32-4
本尊 大聖歓喜天
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 江戸三十三観音霊場7番



心城院の縁起

心城院は、元禄7年(1694)、湯島天神別当職の天台宗喜見院第3世宥海大僧都が、大聖歓喜天を湯島天神境内に奉安するため、宝珠弁財天堂として開基したといいます。明治維新により喜見院は廃寺となり、宝珠弁財天堂を心城院と改めました。当院には江戸名水の一つ「柳の井戸」があることから、柳井堂と称され、また聖天を祀っていることから湯島聖天とも称されています。

心城院栞による心城院の縁起

当山はもと宝珠弁財天堂と称し、湯島天神の一堂宇であった。湯島天神は菅原道真公を祭神としているが、道真公は、藤原時平公の讒言により九州へ流された時、その冤罪をそそぐため聖天(大聖歓喜天・大聖歓喜自在天)さまに祈念され、その信仰が篤く、ために「天満自在天」ともいわれた。
ときに江戸の元禄7年(1694)、湯島天神別当職の天台宗喜見院第3世宥海大僧都が、道真公と因縁浅かざる大聖歓喜天を湯島天神境内に奉安するため開基されたのが当山のはじめで、この聖天さまは比叡山から勧請した慈覚大師作と伝えられている。当山は太田道灌時代には湯島天神の表門に当り、また道灌の皓月亭跡とも伝えられた。
元禄の開基以来、当山は「湯島の聖天さま」として熱心な信者の参詣があり、有名な紀伊国屋文左衛門も当山に帰依された一人であった。(文学博士・林家友次郎著「聖天利生記」抜粋)
享保のころ、幕府の財政事情で、幕府が扶助してきた神社仏閣への支出を削減しようと「富くじ」を発行し、江戸では谷中感応寺(天王寺)、目黒不動龍泉寺とならび、湯島喜見院が公認で富くじが行われ、「江戸の三富」といわれ、後に江戸各所で行われるようになった。
当時の喜見院は相当の領域があったが、明治維新の神仏分離令の影響で惜しくも廃寺、当然喜見院の隠居所的性格をもった当山も廃寺の運命にあるところだったが、聖天さまの御加護により湯島天神との本末関係を絶つのみで、その難を逃れたのである。単独の寺院として歩み出した当山は、建立当時の因縁により天台宗に属し、寺名を「心城院」と改めた。
当山は開基以来幾度となく発生した、江戸の大火、大正大震災や東京大空襲の戦災にも遭うことなく法灯を伝えてきたが、約三百年の長い風雪に耐えた堂宇は老朽化し破損が甚だしくなったので、近年に改修された。(中略)
歓喜天の他に、十一面観音、宝珠弁財天、出世大黒天等の緒仏天を奉安する当山は、湯島天神別当喜見院が江戸三十三観音霊場札所第7番であった関係で、同じく第7番札所として選定されている。商売繁昌、家内安全、厄除、縁結び、受験合格、病気平癒等、霊験あらたかな当山は三百年の昔から信仰の篤い参詣者が絶えない。(心城院栞より)

「本郷區史」による心城院の縁起

心城院
湯島天神町二丁目に在り、世尊院末本尊に歓喜天及辨財天を安置する。元禄七年湯島天神別當喜見院宥海の開く處である。(「本郷區史」より)

東京名所図会による心城院の縁起

心城院
心城院は。天神町二丁目十八番地天神男坂下にあり。天台宗なり。門を入り表面に堂あり大聖歓喜天を祠る。堂の軒には大聖歓喜天と書したる提灯を數多連たり。其前に直径四尺餘の鐵製の水盤あり。右に三坪餘の地あり。江戸砂子にも、寶殊瓣才天社男坂下とあり。本院はもと瓣才天を祭り其後に歓喜天を祀りたるにや詳ならず。
新編江戸志に江戸砂子を引て云ふ。此所の池は長井實盛の庭前の池と云傳ふ。むかしは餘ほどの池なりしが。近来其形のみすこしばかり有り。或説云。長井實盛の宅は江戸に非ず。今中山道の内熊谷の邊なりとなほ尋ぬべし。
一説云。太田道灌の遊亭は皓月亭といへるも此所なり。其時の池是なりと。(東京名所図会より)


心城院の周辺図


参考資料

  • 「本郷區史」
  • 東京名所図会