岡発戸八幡神社|我孫子市岡発戸の神社
岡発戸八幡神社の概要
岡発戸八幡神社は、我孫子市岡発戸にある神社です。岡発戸八幡神社は、正徳4年(1714)の創建と伝えられ、若宮八幡と称していたといいます。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命、素盞鳴尊、武甕槌命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 千葉県我孫子市岡発戸540 |
祭日 | - |
備考 | - |
岡発戸八幡神社の由緒
岡発戸八幡神社は、正徳4年(1714)の創建と伝えられ、若宮八幡と称していたといいます。
「我孫子市史」による岡発戸八幡神社の由緒
正徳四年(一七一四)の創立と伝え、創建当初の花表(鳥居)の棟札があり、本殿は創建以来のものという。社地は台地の突端に位置し、北方の利根川との間に水田が広がっている。その開発にともなって集落が発達し、八幡神を勧請奉祀したのであろう。古来、若宮八幡と称され、近隣に八幡井戸がある。
明治の「神社明細帳」には、「社殿間数間口七尺 奥行九尺」とあり、ほかに、境内社の三峰社として、「建物間口三尺 奥行四尺 祭神伊邪那岐命」、「明治三年四月十九日信徒者十七人ニテ建立」と記されている。三峰社の社殿は現在の社殿の後方にあったが、老朽して廃された。
鳥居は、木造の両部鳥居である。
花表(鳥居)の棟札には「正徳四甲午歳晩冬大吉旦、惣村中氏子敬白」と記されており、五十二名の連名があって、当社創建に当り、氏子の組織も確立したことが分る。
現社殿は、拝殿、相の間、本殿からなる権現造である。
本殿は、流造、瓦葺で、創建当初の遺構といわれているが、もとは茅葺あるいは板葺であったであろう。「村社」の文字のある鬼瓦が一枚保存されているところからみると、瓦葺に替えたのは、一村一社の制度となった明治年代のことであり、ついで町制に移行したために、それをはずしたということではあるまいか。建物は保存がよく、向拝の浜床を板張りとし、木階を登って、高欄付の廻縁が身舎の背面にまでめぐらされているのが注目される。
本殿の中には「正一位若宮八幡神璽」と記す御神体の木箱を納め、神像三体が安置されている。神像は、近代の鋳金作家として知られた大谷善兵衛の遺作で、当社にはその絵図もある。それによると、三神は、八幡大神(誉田別命)、八坂大神(素盞鳴尊)、春日大神(武甕槌命)で、「昭和拾参年正月、為岡発戸鎮守社氏子、大谷相模守藤原正次孫廿八世、大阪四天王寺住、勅宣鋳物師大谷善兵衛書画」とあり、当社のためにつくったものであることが分る。大谷善兵衛は和歌山県橋本の生れで、高村光雲の弟子となって彫刻を学んだ。そして、諸国を遍歴の途次、我孫子にしばらく滞在し、これらの神像と都部正泉寺の庭前に立つ地蔵像を製作した。いずれも堅実な写実的作品で、近代鋳金作家としての技倆をよく発揮したものといえよう。戦後、名古屋城天守の金の鯱を再現することになったとき原型をつくったのはこの人である。
拝殿は、入母屋造の正面に千鳥破風の向拝部を葺きたした瓦葺である。正面の石段の竿石の木口に「当区通称渡辺四朗、右エ門(又ハ惣兵エ)、階段幷敷石、寄附者、当主四朗次、大正十一年十一月敷設、社掌千浜宗輔、石工大塚兼□」と刻まれているのは拝殿が補設されたときのものであろうか。拝殿はその後昭和五十五年に修築されて今日に至っている。(「我孫子市史」より)
岡発戸八幡神社の周辺図
参考資料
- 我孫子市史