興陽寺|我孫子市白山にある曹洞宗寺院
興陽寺の概要
我孫子市白山にある曹洞宗寺院の興陽寺は、自性山と号します。興陽寺は、大凉玄樹大和尚(天正8年1580年寂)が開山となり創建、開基は山高八右衛門(覚了院殿天室自性大居士、延宝5年1677年寂)だといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所59番です。
山号 | 自性山 |
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院号 | - |
寺号 | 興陽寺 |
住所 | 我孫子市白山1-16-1 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
興陽寺の縁起
興陽寺は、大凉玄樹大和尚(天正8年1580年寂)が開山となり創建、開基は山高八右衛門(覚了院殿天室自性大居士、延宝5年1677年寂)だといいます。
「我孫子市史」による興陽寺の縁起
興陽寺 白山一ノ一六
山号自性山 曹洞宗 もと葛飾郡金杉村高徳寺末
開山は大凉玄樹大和尚、開基を山高八右衛門とする。開山の寂年は天正八年(一五八〇)であるから、寺は室町時代最末期の草創である。開基の位牌には「開基覚了院殿天室自性大居士、延宝五年(一六七七)八月五日」とあるので、開山の寂年と開基の没年には相当のへだたりがあるが、山高家は徳川家臣千八百石で最も有力な檀家となったところから、開基に宛てたと解されよう。山高氏がこの地に知行所を宛行われたのは寛文元年(一六六一)のことで、開基については過去帳に「牛込住、今墓有、直参旗本」と記されている。その後数代をへて、享保十一年(一七二六)には山高信礼が法華経十巻を敬写して当寺に寄進しており、山高氏と当寺との関係の深かったことが分る。
相馬霊場の設置は安永五年(一七七六)で、第五十九番伊予国分寺移し、本尊薬師如来とされた。これは境内薬師堂の薬師像をあてたものと思われる。旧薬師堂には安永年代以前すでに薬師及び十二神将像が安置されていた。それは、のこされている旧物厨子の板に「旹安永八己亥年(一七七九)十一月初八日、十二神将造立再、当山十四世代、右南鐐(二朱判銀)壱片、寄附当村部郎衛娘、願主当邑長右衛門」の墨書があることによって知られるが、これら諸像は文政の我孫子宿大火で類焼の厄にあったといわれている。
明治の「寺院明細帳」には、「本堂間口十間 奥行五間」とあり、境内仏堂二宇として、「薬師堂間口弐間 奥行三間 弘法大師堂間口壱間 奥行壱間三尺」と記されている。
昭和年代になって、本堂再建、ときの三十一世龍山大和尚を中興とする。やがて戦後に至り、薬医門が建てられ、朽損しつつあった旧薬師堂も改築されるなど、境内の整備が進んで今日に至っている。
薬医門は、本瓦葺、袖塀付で潜戸がある。柱間は三六二cm、主柱と控柱の間隔は一七九cmで、棟木を束で支えている。昭和四十一年に建てられた新しい建築であるが、一般にみる桟瓦葺でなく、平瓦と丸瓦を交互に敷き並べた本瓦葺であるところは注目すべき点である。
本堂は、昭和十年に再建された。入母屋造、向拝付、桟瓦葺で、内部は六室として正面と両側面に廊下がある。それに、玄関と客殿が接続しているので、本堂と客殿を合わせると、明治の「寺院明細帳」に記されている正面十間の規模に相当する。
本尊は、釈迦如来である。相馬霊場としては薬師如来があてられたが、明治の「寺院明細帳」では「本尊釈迦如来」となっている。像は本堂仏壇にまつられた舟形光背の木造金彩定印坐像である。
僧形像二体が本尊の両脇に配されているが、曹洞宗永平寺開山の道元と当寺開山の大凉両禅師の像で、ともに椅子に坐す姿の木造彩色像である。
仏壇両脇に達磨大師と大権修理菩薩が安置されている。達磨大師像は、朱衣を頭から被り、腹前の手を衣で覆い、衣端が膝から下に垂れ下っており、活眼で坐禅する姿をあらわしている。享保十一年(一七二六)の寄進奥書のある法華経を納めた筥に坐しているところから、当時の造像と考えてよいのではあるまいか。一方の大権修理菩薩像は達磨大師像と対をなすもので、腰をかけて左手をかざした宋服の像である。
仏涅槃図一幅は、縦二三八cm、横一四〇cmの大幅で、紙本着色紙表装になる。沙羅双樹のもとにおいて八十歳の二月十五日に涅槃に入られた釈尊を中心に、諸王、諸天、諸弟子、鳥獣が集合して嘆き悲しむ情景を描く。中天には満月がかかり、上方の雲にのって釈尊の母摩耶夫人が忉利天から天下ってくる姿もみえる。釈尊は床上に右手枕で臥しておられるなど、古来の涅槃図にみるところが綿密に写されている。箱に「文久二年(一八六二)仲春、活巌大禅代」の墨書があって、江戸時代末の調進と知られる。
法華経十巻(筥入)には、享保十一年(一七二六)の寄進奥書があり、「山高八左衛門尉源信礼敬写(花押)、愚詠、法名(朱書)返進院殿不残仕候大居士、かねてより蒔をくたねに咲花の色香妙なる法の連葉(ママ)」などと記されていて趣味人らしい一端をのぞかせている。
境内の薬師堂は、昭和六十一年の改築になる方二間、宝形造、銅板葺の建物で、屋根の頂に金色の宝珠がのっている。堂内には、奥一間の壁にそってコの字形に壇をつくり、中心に厨子入の薬師如来坐像を安置し、左右に六体ずつで計十二体の十二神将像が配してある。薬師像は高い台座とも全体の補修が行われ、十二神将像も補修彩色が行われた。大師堂は、方一間、流造、鉄板葺の瀟酒な建物である。身舎四隅は円柱、内部にも円柱をたてて内外陣の境とし、後壁との間に板壁を張って三間に区切り、中央間に石造大師像を安置する。身舎の前と両側面には廻縁があったが損壊し、脇障子だけがのこっている。外側四周には軒支輪を上げ、花模様の蟇股を備え、太瓶束に笈形を添える。その他、正面小脇羽目に板彫刻を嵌め、向拝柱まわりも彫刻で飾られている。この堂の造建年代はつまびらかでないが、十九世紀前半期にさかのぼる建立ではなかろうか。
大師堂に並んで近年造立の一間社流造の天神社祠がある。それは浜床、高欄付廻縁、脇障子が備わり、向拝柱と身舎の間にかけた海老虹梁に手狭を置くなど、細緻な手法の小形社殿で、白木一木彫成の天神坐像を奉祀し、出世天神と称されている。(「我孫子市史」より)
興陽寺の周辺図
参考資料
- 我孫子市史
- 稿本千葉県誌