法照院|我孫子市中峠にある真言宗豊山派寺院
法照院の概要
我孫子市中峠にある真言宗豊山派寺院の法照院は、宝霊山と号します。法照院の創建年代は不詳ながら元文5年(1740)の中峠村の記録に法性院として記載されていることから、1740年以前には創建されていたといいます。明治維新の後に廃寺となり、昭和41年に中峠青年館の一部に保存されることになったといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所28番です。
山号 | 宝霊山 |
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院号 | 法照院 |
寺号 | - |
住所 | 我孫子市中峠1433中峠青年館 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
法照院の縁起
法照院の創建年代は不詳ながら元文5年(1740)の中峠村の記録に法性院として記載されていることから、1740年以前には創建されていたといいます。明治維新の後に廃寺となり、昭和41年に中峠青年館の一部に保存されることになったといいます。
「我孫子市史」による法照院の縁起
開創の年代、開山、開基など不詳であるが、元文五年(一七四〇)の中峠村の記録に「龍泉寺末法性院、弐反九畝廿歩寺屋敷」とあるのは当院のことで、これによって元文年代以前すでに当院があったことは明らかである。近世を迎えて、中峠の宿通りは大いに発展し、集落の各所に神仏がまつられるようになった。
それらの祭祀に関与し、あるいは集落の講の世話などをするために、本寺龍泉寺の子院として当院が聞かれたのであろう。
阿弥陀堂二間四面、大陸天石宮、大師堂、勢至堂、弁財天石宮、山王宮、雷官、道陸神、弁財天宮、鹿嶋宮(都部村所在)、大日山などの名を列記し、当院がそれらの別当とされているが、『湖北村誌』には、右の中の大日山について「其の昔法性院は此処に在りて其の別当たりしか、後宿通りに移転し、其の跡を寺屋敷と称せり」とある。すなわち、法照院はもと大日山にあったのであるが、のちに宿通りへ移ったわけで、その移転は元禄五年以前のことになる。なお弥陀堂の元の地はいまも弥陀堂と称されているが、建物は廃絶した。
当院は、安永四年(一七七五)に第二十八番土佐大日寺写しの霊場となり、本尊は大日如来とされ、やがて大師堂も建てられた。それが明治初年に衰退し、大正四年に刊行された『相馬霊場案内』には廃寺と記されており、明治の「寺院明細帳」にも記載されていない。しかし、仏堂は存続して信徒が守ってきていたが、昭和四十一年三月に寺の建物を廃して青年館が建てられた。そして、青年館の一部を仏間として仏像や什物は保管されることになった。
仏壇には、不動明王及び二童子像が現本尊としてまつられているが、その像は明治十八年の造立である。それと別に、木造大日如来坐像があって、像底に「元禄十年(一六九七)開眼龍泉寺」の墨書がある。それが、旧本尊であろう。また、寛政八年(一七九六)銘の鉦鼓も保存されている。
大師堂は、方一間、宝形造、向拝付、瓦葺である。屋根の頂上に角形の露盤、円丘状の伏鉢及び火焔付の宝珠があり、正面の屋根を葺きおろして向拝とし、向拝柱は海老虹梁でつなぐ。堂内壁面に「昭和十乙亥年七月八日、弘法大師入定千百壱年、献堂上棟」と記す板が打ちつけてあって、十名の連名とともに、大工棟梁浅香忠右衛門の名もみえる。
堂内には石造大師像とともに木造興教大師像が安置されている。興教大師像は弘法大師像と対をなしていたものと思われるが、いまは興教大師像一体だけとなっている。また、瓦造観覚光音像があり、像背に「恭敬奉造秀音」の刻銘がある。
境内には、切妻屋根の長屋形堂がある。その一間には、小形の社殿を納め、木造の天神像が安置されている。(「我孫子市史」より)
法照院の周辺図
参考資料
- 我孫子市史