村田町神明神社|千葉市中央区村田町の神社

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村田町神明神社|千葉市中央区村田町の神社

村田町神明神社の概要

村田町神明神社は、千葉市中央区村田町にある神社です。村田町神明神社の創建年代等は不詳ながら、別当寺だった泉福寺が永正3年(1506)に創建、開基した日眼は当社の社僧を勤めていたといいます。水害による罹災の都度再建されています。

神明神社
神明神社の概要
社号 神明神社
祭神 天照皇大神・大日要貴命・豊受皇太神・月夜見命
相殿 -
境内社 水天神社、弁財天神社、他4社
住所 千葉市中央区村田町418
祭日 -
備考 -



村田町神明神社の由緒

村田町神明神社の創建年代等は不詳ながら、別当寺だった泉福寺が永正3年(1506)に創建、開基した日眼は当社の社僧を勤めていたといいます。水害による罹災の都度再建されています。

「千葉県神社名鑑」による村田町神明神社の由緒

由緒無記載(「千葉県神社名鑑」より)

「千葉縣千葉郡誌」による村田町神明神社の由緒

神明神社
生實濱野村村田區字野際に鎮座す。天照皇大神、春日大神、八幡大神を合祀す。勧請年月日詳ならず村田區の氏神にして永禄年中大風雨高潮にて兩總境字村田川へ押上げ己に村田一圓悉く建物流失す。然るに本社の祠のみ忽然として殘れり、是を村民神主に問ふ。神主曰『神明なり』と故に氏神に勧請すと。
本殿間口三間奥行き二間半、境内三百八十坪、氏子百三十一戸あり。天明三年水害に罹り社殿悉く流失し、後假に之を祭りしが弘化元年現今の社殿を造築せり。(「千葉縣千葉郡誌」より)

千葉市教育委員会掲示による村田町神明神社の由緒

当社は、天照皇大神・大日要貴命・豊受皇太神・月夜見命の四座を祭神としています。
創建次期は由来が諸説あって定かではありませんが、日泰上人の弟子であり、永正3年(1506)に村田町の泉福寺を開基した日眼は、当神明宮の社僧であったといわれています。泉福寺は山号を神明山と称し、当社の別当寺となります。
昭和28年の改修時に、延宝9年(1681)の年号が記された棟札が発見されました。
現在の社殿は、弘化元年(1844)に新規造営を計画し、嘉永元年(1848)に建立されたものです。(千葉市教育委員会掲示より)

「千葉市南部の歴史」による村田町神明神社の由緒

神明神社
村田町東方の字野際にあり、天照皇太神・大日孁貴命・豊受皇太神・月夜見命の四座を祭神とする(明治一二年の神明帳による)。
創建由緒については三つの伝承がある。第一説は、日本尊命東征の際に、現在の市原市八幡の飯香岡八幡宮で御飯をいただき、「東日光神籏然たり」という場所に該当するという説である。第二説は、源頼朝が飯香岡八幡宮に立寄ったとき、葭篠の繁茂する薮の篠を苅取り弓矢を作らせ、その薮を篠岬と命名したもので、村田の篠崎姓はこれによるという。また岸辺を歩きながら東の方を見ると、立ててあった青龍の旗が勢威を振起するかのようにはためいていたという。そこで治承四年(一一八〇)九月九日、この地に神明神社を勧請したものであるという。第三説は、氷禄年中(一五五八~七〇)に大暴風雨があり、高潮が村田川へ押上り、村内の家屋は全て流失したが、神社だけ忽然として残ったという。村人がそのわけを神主に問うと「神明なり」と答えたので、村社として勧請したものであるという。この説にいう永禄年中というのは疑義があり、すでに永正三年(一五〇六)、泉福寺を創建した日眼は神明宮の社僧であったといわれていて、泉福寺は山号を神明山と称し、当社の別当寺である。(「千葉市南部の歴史」より)


村田町神明神社の周辺図