長作町諏訪神社|千葉市花見川区長作町の神社
長作町諏訪神社の概要
長作町諏訪神社は、千葉市花見川区長作町にある神社です。長作町諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂が当国平定に際して諏訪大社に戦勝祈願、無事平定なったことから、帰国途次の延暦21年(802)当地に諏訪神社を建立したと伝えられます。明治維新後の社格制定に際して村社に列格、明治末期から大正元年にかけて長作地内の諸社を合祀しています。毎年1月11日には御備射(オビシャ)が奉納されます。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 健御名方命、下照姫命 |
相殿 | 日本武命、猿田彦命、健佐賀足智命、伊波比主命、他7柱 |
境内社 | - |
住所 | 千葉市花見川区長作町779 |
祭日 | 10月18・19日 |
備考 | - |
長作町諏訪神社の由緒
長作町諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂が当国平定に際して諏訪大社に戦勝祈願、無事平定なったことから、帰国途次の延暦21年(802)当地に諏訪神社を建立したと伝えられます。明治維新後の社格制定に際して村社に列格、明治末期から大正元年にかけて長作地内の諸社を合祀しています。
「千葉県神社名鑑」による長作町諏訪神社の由緒
開創記録等旧神官宅出火の際悉く焼失して不詳だが、創建は寛永五戌正月と古老が言い伝えている。天保七年九月本殿再建、嘉永年間に拝殿を新造す。現在の幣殿・拝殿は昭和四三年の造築である。本社は延暦年中、坂上田村麻呂が東夷出征の際、信濃惣社上下諏訪に平定を祈願、鎮定の帰途上下惣社を当所に遷置された。従って祭式も信濃惣社に擬して現在に及んでいる。明治四四年、近接の無格社日枝神社、無格社道祖神社を、大正元年には無格社春日神社、無格社道祖神社・無格社三嶋神社・無格社水神社・無格社稲荷神社・無格社十二社神社・無格社第六天神社・無格社天津神社・無格社水神社を合祀。(「千葉県神社名鑑」より)
「千葉縣千葉郡誌」による長作町諏訪神社の由緒
諏訪神社
幕張町長作に鎮座す。健御名方命下照姫命を祀る。本殿間口一間奥行一間、拝殿間口三間三尺奥行二間、社殿創立不詳、再建天保七年九月、造成拝殿嘉永年間に新造す。境内神社疱瘡神社あり。
由緒本社は延暦年中坂上田村麿東夷出征の際信濃惣社上下諏訪に陳し、連に東平あらんことを祈願し稍鎮定の歸途に至り上下惣社當所に遷置す(故に祭式も信濃惣社に擬す)。之を本村の鎮座とす。氏子百十四戸、毎年二月十一日射的式あり、往古神前へ猪しかの頭を供へ射的の例を行ふ。今は射的のみ存す。十月に至り十八十九兩日神輿村内渡御の例を行ふ。境内神社疱瘡社あり。(「千葉縣千葉郡誌」より)
長作町諏訪神社所蔵の文化財
- 諏訪神社のオビシャ
諏訪神社のオビシャ
諏訪神社とオビシャ
征夷大将軍坂上田村麻呂は東北地方征討の際、信濃国(長野県)の諏訪大社に蝦夷鎮定を祈願、その後の延暦21年(802)平定がかない、都への帰路、この長作の地に立ち寄り、田村麻呂がそのお礼に諏訪大社より分社して祀ったのが当社の始まりと伝えられています。
当社にはオビシャの行事が伝えられ、江戸時代末までは、毎年2月11日に諏訪大社での狩猟の豊かさを祈る御頭祭を模して神前に猪・鹿の頭を供え、豊作を祈りながら弓で的を射て、その年の豊作を占う的射と、神前に供えたものを神とともに食する共同飲食が行われたと伝えられています。
現在は毎年1月11日にオビシャが行われています。(千葉市教育委員会掲示より)
長作町諏訪神社の周辺図