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重俊院|千葉市中央区生実町にある曹洞宗寺院

重俊院の概要

曹洞宗寺院の重俊院は、森川山と号します。重俊院は、小弓藩初代藩主森川重俊を開基とし、森川重俊が徳川秀忠の逝去(寛永9年1632年)に伴い殉死した後、埋葬地を菩提寺として創建、宝永年間(1704-1711)に栃木県下都賀郡の大中寺第一五世独法秀作を住持に迎えて開山とするといいます。

重俊院
重俊院の概要
山号 森川山
院号 重俊院
寺号 -
住所 千葉市中央区生実町1158
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



重俊院の縁起

重俊院は、小弓藩初代藩主森川重俊を開基とし、森川重俊が徳川秀忠の逝去(寛永9年1632年)に伴い殉死した後、埋葬地を菩提寺として創建、宝永年間(1704-1711)に栃木県下都賀郡の大中寺第一五世独法秀作を住持に迎えて開山とするといいます。

千葉市教育委員会掲示による重俊院の縁起

曹洞宗に属し、釈迦如来を本尊とする。小弓藩主森川氏の菩提寺です。初代森川重俊は、徳川秀忠の近侍でしたが、軍功によって寛永4年(1627)1万石の大名として小弓に封ぜられ、北小弓城址に陣屋を構えました。重俊は老中職に昇進しましたが、寛永9年正月、秀忠の逝去により報恩のため殉死しました。重俊院はその埋葬の地です。
仏殿には優雅な聠が数多く掲げられていましたが、昭和49年不慮の災にあって堂宇とともに失いました。仏殿の奥の裏山に並び立つ森川氏一族の雄大な墓碑は、千葉市重要文化財に指定されています。(千葉市教育委員会掲示より)

「千葉市史」による重俊院の縁起

重俊院
釈迦知来を本尊とする曹洞宗森川山重俊院出羽寺は、生実藩一万石の領主森川家の菩提寺である。近隣の人々は「お寺さま」と呼び、幼児は丹塗りの山門にちなんで、「赤門のお寺]と名付けて親しんでいる。
当山の創建は寛永九年(一六三二)徳川秀忠に殉死した初代森川重俊の霊を弔うため、二代重政が幕府に願い出て、建立したものである。森川重俊は寛永三年(一六ニ六)生実一万石の大名に封ぜられ、後に老中に任ぜられ、幕政に参画していた。当山は初め、現在船橋市の宝成寺住職が輪番となる慣行であったが、宝永年間(一七〇四~一一)に栃木県下都賀郡の大中寺第一五世独法秀作を迎えて、住職に任命し、大中寺の末寺となり現在に至っている。
本院の西は弁天池に臨み、旧小弓城出丸跡に接し、寺内には楓、梅が多く、領主の菩提寺としての風格を備えている。江戸時代には寺領ニ〇石を有していたという。墓域に入る石段を登ると、正面に重俊の墓碑が立ち、左右及び後方に歴代領主の基が並び、総数四六基が静かにねむっている。千葉市内に残る大名の墓所は当院のみである。(「千葉市史」より)

「稿本千葉県誌」による重俊院の縁起

重俊院
同村(千葉郡生實濱野村)大字北生實字風呂口に在り、境内千百七十三坪、曹洞宗なり、寛永年中領主森川重俊之を創建し、下野国都賀郡山田大中寺の住僧秀作を以て開山となす、後寺田二十石を寄す。(「稿本千葉県誌」より)

「千葉縣千葉郡誌」による重俊院の縁起

重俊院
生實濱野村北生實にあり。下總國都賀郡山田村大中寺の末寺にして、本尊釋迦如来、當寺は寛永年中森川出羽守幕府に請ひて創建す。故森川山重俊院出羽寺と號す。大中寺十五世の嗣法獨法秀作本院の座主たり。之を開山とす、境内堂背の石段を登れば古松鬱々たる中に四十六基の石碑あり、其の正面に重俊の墓標あり。碑面に重俊院殿前出羽守活國正英大居士神儀寛永九壬申年正月廿四日源朝臣森川重俊公と刻す。其の他は重俊の子孫及末家の墓碣たり。寶物として傳ふるものに兆殿司畫、紙地墨畫維摩居士之像、澤庵禅師筆紙地和文あり。子爵森川氏の菩提なり。堂宇間口七間奥行六間、境内千百七十三坪、境外所有地三町七反七畝二十九歩、檀徒百二十一戸。(「千葉縣千葉郡誌」より)


重俊院所蔵の文化財

  • 森川氏一族の墓碑

重俊院の周辺図