弘法山長福寺|千葉寺十善講八十八所
長福寺の概要
真言宗豊山派寺院の長福寺は、弘法山と号します。長福寺の創建年代等は不詳ながら、犢橋村について千葉縣千葉郡誌では「昔時三枝の郷六方野庄と稱せられ、小金ヶ原の一部なりしが、今より凡三百年前慶長(1596-1615)の頃来りて茲に土着せるものあり」とあり、江戸時代初期の開創と推定されています。明治維新後、当寺が小学校に供用されていたそうです。境内大師堂は千葉寺十善講八十八所19番(旧神照寺)・20番・21番(旧勢至堂)です。

山号 | 弘法山 |
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院号 | - |
寺号 | 長福寺 |
住所 | 千葉市花見川区犢橋町407 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長福寺の縁起
長福寺の創建年代等は不詳ながら、犢橋村について千葉縣千葉郡誌では「昔時三枝の郷六方野庄と稱せられ、小金ヶ原の一部なりしが、今より凡三百年前慶長(1596-1615)の頃来りて茲に土着せるものあり」とあり、江戸時代初期の開創と推定されています。明治維新後、当寺が小学校に供用されていたそうです。
「千葉縣千葉郡誌」による長福寺の縁起
長福寺
犢橋村字犢橋にあり。大聖寺末にして、大日如来を安置す。由緒不詳にして、間口九間半奥行六間なり。境内五百二十坪にして一宇の不動堂あり。三町一反五畝十一歩を有し、檀徒九百九十人あり。(「千葉縣千葉郡誌」より)
「全国寺院名鑑」による長福寺の縁起
江戸初期の開創。元禄年間の住職の墓石を今に伝える。明治初期から大正初期まで無住、小学校として使用された。昭和初期先住が再興し今日に至る。(「全国寺院名鑑」より)
長福寺の周辺図