四宮神社|日下刑部美則が近江四宮大明神を勧請
四宮神社の概要
四宮神社は、長生郡長南町蔵持にある神社です。四宮神社は、清水谷大納言の猶子亀若丸が天台宗僧正として、長福壽寺住職に任命された際、日下刑部美則が随従、近江国滋賀郡出身だった日下刑部美則は、自身の産土神「四宮大明神」の分霊を当地に勧請したと伝えられます。かつては、当社の神輿は東浪見釣が崎に渡御、一の宮・二の宮・三の宮の神輿と共に祭典を行っていたといいます。
社号 | 四宮神社 |
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祭神 | 彦火火出見尊 |
相殿 | - |
境内社 | 金刀比羅神社 |
例祭日 | 10月10日 |
住所 | 長生郡長南町蔵持347 |
備考 | 旧村社 |
四宮神社の由緒
四宮神社は、清水谷大納言の猶子亀若丸が天台宗僧正として、長福壽寺住職に任命された際、日下刑部美則が随従、近江国滋賀郡出身だった日下刑部美則は、自身の産土神「四宮大明神」の分霊を当地に勧請したと伝えられます。かつては、当社の神輿は東浪見釣が崎に渡御、一の宮・二の宮・三の宮の神輿と共に祭典を行っていたといいます。
境内掲示による四宮神社の由緒
村社四宮神社は、蔵持字明神下に鎮座し、彦火火出見尊を祀る。
社伝に、文和二年(一三五三)清水谷大納言の猶子、亀若丸は梶井宮(三千院門跡)の弟子になり若年十八歳で僧正となった。
当時の房総は、東夷と称し、未だ王化をおろそかにしていたので、勅命をもって房総天台宗を総管する、三途台 長福壽寺の住職に任ぜられた。その時、随従として日下刑部美則が供奉し当地に下向した。
美則は、江州(滋賀県)滋賀郡の出身であるので、同郡の鎮守、四宮大明神の分霊を頂きここに祀ったといわれている。
弘化二年(一八四五)八月社殿再建、慶応三年地頭神長左衛門から第二の鳥居の寄進を受けたとある。
往昔は本社の神輿遠く東浪見釣が崎に渡り、一の宮以下三の宮の神輿と会合して共に祭典を行ったという。
平成九年六月老朽化した拝殿を建替新築することになる。
報恩謝徳ここにお社は落慶に至った。(境内石碑より)
「千葉県神社名鑑」による四宮神社の由緒
創建年代不詳。しかし一誌によると、北朝四代後光厳帝の御宇文和二年、清水谷大納言御猶子亀若丸が梶井宮の弟子になり、若年一八で僧正となった。房総三ヶ国は「東夷」と称し未だ王化に従わなかったので、勅命により上総国埴生郡千田村三途台長福寺住職に任じられ、随従の日下刑部美則なる者供奉し当国に下向、美則は江州渋賀郡出身で、四宮大明神を鎮守としていたためその分霊を祀った。後弘化二年八月社殿再建、慶応三年地頭神長左衛門から第二の鳥居の寄附を受けた。(「千葉県神社名鑑」より)
「長南町史」による四宮神社の由緒
四宮神社
蔵持字明神下に鎮座し、彦火火出見命を祭る。
由緒不詳であるが社伝に、人皇第一一九代光格天皇の文化二年(一八〇五)、清水大納言の子、亀若丸は梶井宮の弟子になり十八歳で僧正に任ぜられた。当時の一房総二か国は、東夷と称し、未だ王化をおろそかにしていたので、勅令をもって、上総国埴生郡千田村、三途台長福壽寺の住職に任ぜられた。その時、日下刑部美則が供としてぎた。美則、江州渋賀郡の産であるので、同郡の鎮J守、四宮大明神の分霊を頂き現在地に祭ったといわれている。
往昔は本社の御輿遠く東浪見釣が崎に渡り、一の宮以下、三の宮の御輿と会合して、共に祭典を行なったという。(「長南町史」より)
「長生郡郷土誌」による四宮神社の由緒
四宮神社(村社)
蔵持區四宮山腹にあり、村社にして彦火々出見尊を祀れり。往昔は本社の神輿遠く東浪見村釣ヶ崎に渡御し、一ノ宮以下三ノ宮の神輿と會合して、共に祭典を行ひしといふ。境内は高臺にして蔵持平野に臨めり。(「長生郡郷土誌」より)
四宮神社の周辺図
参考資料
- 「千葉県神社名鑑」
- 「長南町史」
- 「長生郡郷土誌」